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2017年は、大政奉還から150年。
そして今年2018年は、大河ドラマ西郷どんと、戊辰戦争の発端の戦となった、鳥羽・伏見の戦いから150年の年となっております。
そこで今回は、鳥羽・伏見の戦いが起こった土地である、京都市伏見区の史跡を案内させて頂きます。
まず簡単に鳥羽・伏見の戦い(とば-ふしみのたたかい)について、紹介させて頂きます。
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鳥羽・伏見の戦いとは
明治元年/慶応4年、1月3日~6日(1868年1月27日~1月30日)
薩摩藩と長州藩、土佐藩を中心とする新政府軍と、徳川15代将軍、徳川慶喜公を擁する旧幕府軍との争い。
この戦を鳥羽・伏見の戦いといい、1869年6月27日に終結する、戊辰戦争の初戦となります。
新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約15000人だったと伝えられております。
戊辰戦争とは
将軍であった徳川慶喜公が朝廷へ政権を返上し(大政奉還)、幕府を廃止しましたが、まだまだ権力を保持しておりました。
その後、薩摩藩や長州藩、土佐藩等や、明治天皇の討幕派の公家などにより、新政府の成立宣言「王政復古の大号令」が発せられます。
これにより、幕府は廃止され、慶喜公は領地召し上げ、将軍職も廃止となりました。
慶喜公はその条件と引き換えに、新政府での役職に任命されようと、大坂で上洛準備をしておりましたが、徹底的に討幕を狙っていた西郷隆盛は、多数の浪士を使い江戸で大暴れします。
強盗や放火などの挑発行為を多々行い、ついには1867年12月、庄内藩の屯所へ発砲。
そしてそれに応じるがごとく、旧幕府側も薩摩藩邸を襲撃。これにより、旧幕府側から戦端を開いたという既成事実を作ってしまいます。
まさにこれこそが西郷隆盛の狙いでした。
12月28日にこの知らせが慶喜公のいた大坂へ届くと討薩の声が高まります。慶喜公はこうした声を抑えることができなくなり、戊辰戦争が開戦します。
鳥羽・伏見の戦い 開戦
1月3日、鳥羽街道と伏見街道を抑えていた新政府軍と、淀の旧幕府軍が、鳥羽小枝橋付近で接触します。
上洛のため道を開けよという旧幕府軍に対し、新政府軍はこれを拒否。激しい口論が起こります。
押し問答が続きますが、遂に強行突破で進軍した旧幕府軍に対し、新政府軍が発砲。
不意を突かれた旧幕府軍は大きな損害を被り、下鳥羽まで後退を余儀なくされます。
鳥羽街道での銃声が合図となり、伏見奉行所を包囲していた薩摩軍が一斉に砲撃を開始。
これに対し、京都の治安を守ってきた会津藩や新撰組が、御香宮周辺で応戦します。
ですが鉄砲や大砲を使う薩摩軍が相手ではかなわず、新撰組等は劣勢となります。
この状況を打開するため、永倉新八率いる新撰組の二番隊が、御香宮に陣を敷く薩摩軍へ切り込みます。
伏見に住む方のお話では、当初は先に旧幕府軍が御香宮へ入りましたが追い出され、その後新政府軍を迎い入れたとのこと。その際、炊き出しなども行われたそうです。(諸説あり)
当時の戦の激しさを物語る史跡として、伏見の料亭「魚三楼」に、鳥羽・伏見の戦い時の弾痕が残されております。
写真撮影は自由とのことですが、劣化を防ぐため、お手を触れないようにとのことです。
鳥羽伏見の戦いが始まった時点での朝廷は、正式に新政府軍へ味方をしている状態ではなく、徳川家と薩長の私戦であると、関わらずにいようという意見も強かったようです。
ですが、新政府軍側が優勢になると態度を変え、新政府軍へ錦旗を下しました。
このことにより、新政府軍こそが天皇が認めた軍(官軍)となり、旧幕府軍は天皇に逆らう賊(賊軍)であると示されました。
新撰組の奮闘により当初は優勢でしたが、徐々に劣勢となってしまい、旧幕府軍は引かざるをえなくなります。
更に、錦旗を掲げる新政府軍を見た旧幕府軍は戦意喪失となってしまい、旧幕府軍は淀城にて体勢を整えようと動きます。
淀堤千両松では、刀で斬り込む新撰組隊士らへ向け、薩摩軍が砲弾を浴びせます。
この時、井上源三郎や山崎烝など、多くの新撰組隊士が亡くなりました。
この時淀城へ向かう際、新政府軍を足止めするため、町一帯に火が放たれ、多くの民家等が焼かれてしまいました。
こちらの西岸寺周辺も戦渦に巻き込まれました。
この時町民達は近くの山へ避難していたと、伏見の方が話されておりました。
旧幕府軍は淀城へ入城を試みましたが、淀藩の藩主、稲葉正邦により入城を拒否され、更に銃口まで向けられ、撤退を余儀なくされます。
旧幕府軍は淀藩に見限られたのです。淀藩は朝敵になることを恐れたのかもしれません。
1月6日、大坂城まで撤退した軍勢に対し慶喜公は戦うことを宣言します。ところがその夜、慶喜公らは大坂城を脱出。残された者達は大混乱となります。
のちに慶喜公は江戸城へ戻ります。
こうして鳥羽・伏見の戦いは、数で勝っていたはずの旧幕府軍が完敗。
戊辰戦争は続きますが、鳥羽・伏見の戦いについては、ここで区切りがつきます。
その他にも伏見の町には、多くの史跡がございます。
寺田屋
「寺田屋騒動」や「寺田屋事件」で有名な、幕末を代表する史跡のひとつである寺田屋は、江戸時代から続く旅館です。
鳥羽・伏見の戦いで寺田屋周辺は激戦地となり、寺田屋自体も焼け落ちましたが、当時の様子を再現し再建され、現在でも旅館として営業しております。見学も可能です。
伏見土佐藩邸跡
「鳥羽・伏見の戦いは、薩摩・長州藩と会津・桑名藩の私闘なので、戦争に加わるな」と、土佐藩主の山内容堂は藩士らに命じておりました。
ただ、藩大目付の板垣退助は「戦いが起こった時には、薩摩藩と行動を共にせよ」と藩士らに命じていたため、藩の一部は薩摩藩と共に戦いました。
その時土佐藩は、土橋で陣を張ったと云われております。
後に土佐藩主は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛されたそうです。
市村 鉄之助
今回わたくしは、昨年の伏見お城まつりにて演じさせて頂いた、新撰組の少年隊士「市村鉄之助」に扮し、伏見の史跡を案内させて頂きました。
市村鉄之助(いちむら-てつのすけ)は14歳で、兄・市村辰之助と共に新撰組へ入隊。
土方歳三の小姓として務め、箱館まで同行しますが、土方の命で遺品を預かり箱館を脱出。
その後、無事に土方歳三の義兄、佐藤彦五郎の元へ届けます。
世に残っている土方歳三の写真は、市村鉄之助が届けた物と云われております。
最期まで共に戦いたいと言う鉄之助に対し土方は「命令に背けばここで切る」と。土方の想いと思い出を胸に、走り出す鉄之助…
それはきっと、まだ若い鉄之助をむざむざ死なせたくはないという、土方の優しさだったのだと思います。
鬼の副長と呼ばれた土方歳三。優しすぎるがゆえに、鬼になることを選んだのかもしれません。
一日で歴史が変わる…まさに激動の時代、幕末。
討幕派…自身も死ぬ気がなければ、大きすぎる幕府に対抗するなんて出来なかったでしょう。
新撰組…恩や義、武士として死ぬという志がなければ、最期まで戦えなかったでしょう。
思想と思想のぶつかり合い。
使用しているものは鉄砲や大砲、刀であっても、そこには心があった。まさに心と心、志と志の戦争だったのだと…
2018年1月27日、鳥羽・伏見の戦いからちょうど150年目の日。
この特別な日に伏見の地にて、鳥羽・伏見の戦いについての演劇を披露させて頂きます。
鳥羽伏見の戦い 150年プロジェクト
鳥羽伏見の戦い150年を記念して、下記の通り公演イベントを開催致します。
【日程】平成30年1月27日(土)
【出演時間】10時開場 10:30スタート 11:30撤収
【場所】伏見総合庁舎 (伏見区役所)1階ホール
室内ですので、雨でも公演致します。
演劇をご覧になり、伏見の史跡を巡って頂けたらと思います。
皆様、是非お越し下さいませ!お待ちしております!
(寄稿/モデル)今井かな
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