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杉敏三郎は、1845年10月6日に生まれた杉百合之助の3男で、吉田松陰とは15歳離れた弟に当たる。
杉文からは2歳年下の弟。
その容貌は、吉田松陰に酷似していたと伝わるが、生まれつきの聴覚障害者で耳が聞こえず、当然、発音も不自由であった。
しかし、動作は健常で明るく、礼儀・応接は他人の及ばぬほど丁寧であったと言われる。
話すことはできなかったが、読書が好きで学問にも熱心であった。
兄の吉田松陰は弟・杉敏三郎のことを、なにかと心配して、1850年に九州遊学で熊本へ行ったさい、加藤清正を祀る浄池廟(墓所)を詣でて、熱心に祈ったことで知られる。
加藤清正公は難病の治療に特効があるとの信仰があったのだ。
1853年には、杉敏三郎に読ませたいと、吉田松陰が江戸で絵本を購入して実家に送っている。
文字だけを読んでも意味が分かりにくく、絵と文字の両方を読むと、理解しやすいと言う点を吉田松陰はわかっていたのだ。
1854年頃には、杉敏三郎も「字が書けるようになった」事を、吉田松陰が書状で知り喜んだ。
また、高杉晋作からは剣術も学び、のち奇兵隊に志願もしている。
松下村塾にて久坂玄瑞や伊藤博文らとも交流があったことだろう。
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1859年5月24日、吉田松陰が江戸に送られることなり、家族と最後の別れをした際には、杉敏三郎(15歳)は吉田松陰から手をかけらて一言、助言を与えられ涙した。
そして、10月27日、吉田松陰は処刑された。
その後、杉敏三郎は兄・杉梅太郎、及びその子の世話になり、裁縫・掃除をこなし、老を敬い、幼を慈しむ優しさを見せ、母の世話をよくしていたが、明治9年 (1876年) 32歳の若さで急死した。
(参考) 聾史を探る、萩の人物データベース
・ 高杉晋作の詳細はこちら
・ 奇兵隊は強かった?
・ 八月十八日の政変をわかりやすく解説
・ 七卿落ちとは?
・ 吉田松陰の刀が新井領一郎によってアメリカへ渡る話
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