津田梅子~日本女性の自立に向けて生涯支えた先駆者


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 津田梅子(つだ-うめこ)は、幕臣だった津田仙の次女として、江戸の牛込南御徒町(東京都新宿区南町)にて明治元年12月3日に生まれた。
 母は、津田初子。

 父が幕臣から、築地のホテル館に勤務を始めたため、一家は向島へ移住。
 梅子は手習いや踊などを学ぶ一方、父が西洋野菜などの栽培をした農園の手伝いもしたと言う。

 5歳(明治3年)になると、私塾・三省堂に通学して、読書と習字を学んだ。

 明治4年(1871年)、父が北海道開拓使の嘱託となると、津田家は麻布へと移り、黒田清隆が企画したアメリカへの女子留学生募集に、津田梅子を応募させた。

 そして、岩倉使節団の岩倉具視木戸孝允大久保利通伊藤博文野村靖山田顕義らに随行する形で11月に横浜港から出港し、サンフランシスコを経由して、12月にワシントンへ到着した。
 この時、日本で初めてとなった女子留学生5名は、津田梅子(6歳)の他、山川捨松(11歳)、永井繁子(10歳)、吉益亮(14歳)、上田悌(16歳)であり、留学期間は10年と定められていた。
 ワシントン弁務公使であった森有礼は、津田梅子を見て「どうすればいいんだ。こんな幼い子をよこして」と嘆いたとも言われる。

 津田梅子はジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に下宿。
 5月には森有礼の斡旋により、ワシントン市内に移り住んだが、年長の2人はホームシックに掛かり10月に帰国している。
 残った津田梅子、山川捨松、永井繁子はまだ、歳が低かったので、ホームシックにはならなかったようで、この3人は生涯の親友となった。

 その後、津田梅子は再びランマン家に預けられると、日本に帰国するまで世話になる。

 英語だけでなく、ピアノなども学び、日本へ送った手紙もやがて英文で書くようになったと言う。
 また、自らキリスト教にも興味を示すと、明治6年(1873年)7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィア独立教会で洗礼を受けている。
 これには、ランマン夫妻はキリスト教を説得したり、勧めたわけでもなかったので、とても喜んでくれたと言う。

 明治11年、コレジエト校を卒業し、私立の女学校アーチャー・インスティチュートへ進学し、ラテン語、フランス語などや英文学、自然科学や心理学、芸術などを学んだ。

 また、ランマン夫妻に誘われて休暇には全米各地を旅行している。

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 明治14年(1881年)に、帰国命令が出たが、在学中であった山川捨松と津田梅子は、そのまま留学を延長し、明治15年(1882年)7月に卒業。
 そして、11月に日本へ帰国したが、この時、北海道開拓使は解散してしまっていた。

 帰国した時には、日本語をほとんど忘れており、通訳が必要なほどであったと言うが、これは山川捨松と永井繁子も例外では無い。
 また、女性が仕事をする場がまだ乏しい日本では、当然、帰国子女が活躍できる場などなく、途方に暮れたともされている。

 明治16年、外務卿・井上馨の夜会に招待されると、伊藤博文と再会して、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾の下田歌子を紹介された。
 そして、津田梅子は伊藤博文への英語指導や通訳のため雇われて、伊藤家に住み込み、また下田歌子からは日本語を学んで「桃夭女塾」では英語教師として働いた。

 明治18年、伊藤博文に推薦されると、学習院女学部から独立した華族女学校にて約3年間、英語教師を務めている。

 この頃、何度も薦められた縁談を断り、生涯未婚を誓ったと言う。
 これには、夫婦で対等に接していたランマン夫妻を見て育ち、良妻賢母として夫に尽くすと言う日本女性の結婚に疑問を感じたからだろう。

 明治21年、アメリカ留学時代の友人アリス・ベーコンが来日すると、彼女に薦められて再度の留学を決意。
 父・津田仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘であるクララの仲介で、留学の学費免除の承諾を得ると、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可された。

 明治22年(1889年)7月に再び渡米すると、フィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、ブリンマー・カレッジにて生物学を専攻した。
 3年間の課程を1年で終了すると、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆する一方、教授法に関する研究を州立オズウィゴー師範学校で行った。

 津田梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは、日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしたのちアメリカへ帰国すると、日本の女性り出版に協力している。
 この事が、日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、津田梅子は留学を更に1年延長して、日本女性の留学推進のため、奨学金制度の設立を発起して、万国婦人クラブ連合大会では日本女性を代表して公演するなどし、募金活動も開始した。

 大学からはこのままアメリカでの研究を薦められたが、明治25年8月に日本に帰国した。
 当時に女性として独身を貫くのであれば、そのままアメリカにて生活した方が本人にとっては恵まれていただろうが、津田梅子は日本に戻って日本女子のために尽くす。
 そして、再び華族女学校にて勤務したが、自宅にて女学生を預かるなど積極的な援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも英語講師を務めた。

 明治31年5月、女子高等師範学校の教授を兼任し、成瀬仁蔵の女子大学創設運動にも参加。

 明治33年(1900年)、35歳のとき官職を辞すると、父・津田仙やアリス・ベーコン、大山巌・山川捨松、桜井彦一郎らの協力を得て「女子英学塾」(津田塾大学)を東京麹町区に開校。
 塾長となると「男性と協同して対等に力を発揮できる女性」の育成を目指して一般女子の教育を始めた。

 女子英学塾は、これまでの琴や花嫁修行・行儀作法などとった日本の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルが高い授業が評判となった。
 明治36年、8名の卒業生を送り出す第一回卒業式を迎えたが、指図などで独自の教育方針が妨害されないよう、資金援助も小規模であったため、津田梅子やベーコンらは、はじめ無報酬で奉仕したと言い、経営は厳しかったと言われる。

 津田梅子は塾の創業期に健康を害したため、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任した。

 その後は鎌倉の別荘で長期の闘病生活を送り、昭和4年(1929年)8月16日に64歳で死去したが、生涯独身を貫いた。

 墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内。

 津田英学塾の校舎は後に戦災で失われ、昭和23年になって正式に津田塾大学となった。

 津田梅子は「古い時代の拘りは捨てて、新しいことを求めつつも、良き伝統に関しては大切にしてほしい」と卒業生を送り出してたと言う
 このように日本の女性地位向上と教育のために献身した、日本の女子教育の先駆者である津田梅子が残した功績は、計り知れないだろう。

 (参考) Wikipedia

 

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