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長井雅楽(ながいうた)は、長州藩の名門中の名門である大組士中老・長井泰憲(長井次郎右衛門泰憲、馬廻役300石)の長男として1819年5月1日に生まれた。
母は福原利茂の娘。諱は時庸、通称は雅楽のほか、与之助、与左衛門など。
4歳の時(1822年)に父が病死したため、家督を継いだが、まだ幼少であった為、家禄を150石に減らされている。
長井の家の近くには、前原一哉や周布政之助の屋敷があったと言う。
早くから知弁者とうたわれ、藩校・明倫館で学び、長州藩主・毛利敬親の小姓、奥番頭となった。
毛利敬親からは厚い信任を受け、毛利敬親の世子である毛利定広の後見人にもなっている。
1858年には、長州藩の要職・直目付(じきめつけ)に就任。
しかし、国内では外交をめぐる政争が熾烈となる。
長井雅楽は開国論者であり、通商を行って国力を増し、諸外国を圧倒すべしと、1861年に開国論と公武合体を合わせて「航海遠略策」を藩主に建白すると、長州藩の藩論となった。
そして、1861年11月、藩主・毛利敬親と共に江戸に入ると、徳川幕府の老中・久世広周、安藤信正と会見。
翌月、正式に航海遠略策を建白すると、皇女和宮の降嫁が決定していた時期だった為、徳川幕府は長州藩に公武周旋を依頼し、三条実愛を通じて朝廷も「開国論」を受け入れ、日本の方針となった。
1862年の正月には、老中格にまで出世している。
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しかし、長州藩内において、倒幕も視野に入れて活動していた10歳年下の吉田寅次郎ら尊皇攘夷派から激しい反発を招き、大老・井伊直弼が就任して安政の大獄となると、尊王攘夷派の吉田松陰の江戸護送に関してはも特に反対や幕府への釈明などはせず、職務上から「やむなし」と言う姿勢を取った。
それに反感を覚えた、吉田松陰の弟子である久坂玄瑞や前原一誠らに命を狙われる事となる。
薩摩藩士・西郷隆盛も「大奸物、長井雅楽を斬れ」と久坂玄瑞に話していたと言う。
1862年1月15日、徳川幕府にて、公武合体を進めていた久世広周、安藤信正らが水戸藩士らによる坂下門外の変で失脚すると、長州藩内では攘夷派が勢力を盛り返し、長井雅楽の排斥運動が激しくなった。
1862年3月、再度入京するも、既に久坂玄瑞らが朝廷工作を行った結果、薩摩藩・島津久光の幕政改革案が朝廷に受け入れられており、「航海遠略策」は朝廷を軽んじる不届きな説となってしまった。このように、長州藩の藩論も尊王攘夷に転換され、毛利敬親により謹慎処分を命じられると萩に帰国した。
6月には失脚して免職され、翌年の1863年、長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。
開国派の藩士らは長井雅楽の奪還を狙ったりしたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂い、1863年2月6日に自害。享年45。
高杉晋作の父・高杉小忠太が介錯し、国司親相が切腹検視役正使を務めた。
長井雅楽が亡くなったあと、多くの人々は「惜しい人物を殺した」と言い、反対派の中にも「あれほどの人物を何故、自分たちは死に追いやったのだろうか」と述べる者もいたと言う。
長女・長井貞子は後に富岡製糸場で勤務している。
(参考)Wikipedia
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