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松島剛蔵(まつしまごうぞう)は、1825年3月6日生まれで、長州藩の藩医・松島瑞蟠の長男。萩の中ノ倉にて誕生した。
弟に小田村伊之助(楫取素彦)と小倉健作がおり、小田村伊之助は、吉田松陰の妹・杉久と結婚し、死別後、杉文と再婚している。
松島剛蔵は、父・松島瑞蟠が発狂して廃人となったため、1831年に僅か6歳で家督を継いだ。家禄は39石余り。
その後、若くして江戸遊学し、医師・坪井信道について4年間学ぶ。
長州に戻ると、世子である毛利元徳の侍医に就任した。
藩内随一の蘭学者として1855年9月には、長州藩の医学所・好生館に西洋学所が置かれた際、師範役となった。
のち、長崎に伝習生として赴き、勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人から航海術を学んだ。
1857年6月に長州に帰藩すると洋学所・軍艦教授所を創立。この軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。
好生館では西洋学所師範役長として西洋兵書を講じている。
また、桂小五郎(木戸孝允)や、親戚の吉田松陰ら、松下村塾の門下生とは提携し、藩政改革を進める村田清風ら改革派「正義党」の一員として国事にも尽くした。
1857年、長州藩が初の西洋式軍艦製造を行い、初代の長州藩海軍総督に就任し、丙辰丸の艦長になった。
桂小五郎と共に海軍の充実と丙辰丸の江戸航海について、藩庁に請願書を提出すると、1860年、長州藩の許可が下りてし、高杉晋作・久坂玄瑞ら士分6人と舸子14人が丙辰丸に乗船し、、外洋を航海。そして、6月に江戸・品川に入った。
同年1860年7月、桂小五郎に水戸藩との連携の重要性を説き、水戸藩士の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らを紹介し、水戸藩と長州藩が連帯して吉田松陰の志を継ぐ「丙辰丸の盟約」(成破の約)を丙辰丸の艦内で結んだ。
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1862年、高杉晋作、久坂玄瑞らと共に「御楯組」を結成。
12月12日、江戸品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館襲撃に参加した(英国公使館焼き討ち事件)。
1863年5月、下関戦争では三田尻海軍局頭取として海軍を指揮。庚申丸の艦長としてアメリカ商船を攻撃した他、5月23日にはフランス船を、5月26日にはオランダ船に砲撃を加えたが、両艦は逃走。
長州藩は勝利に沸きたったが、6月、アメリカの軍艦・ワイオミング号の猛烈な反撃を受け、他の藩艦・癸亥丸、壬戌丸と共に庚申丸は撃沈された。
陸上に設置した大砲も目の前を通過する正面の艦船のみに砲撃できないなど、長州藩は戦術的にも劣っており。馬関海峡(関門海峡)の大砲・砲台も破壊され、長州藩の被害は甚大となった。
6月5日にはフランス軍艦のフリゲート艦・セミラミス、通報艦・タンクレードが下関を砲撃。
250人の武装兵が上陸し、砲台を破壊、付近の村を焼き払った。この際、松島剛蔵は戦闘で負傷。
上陸した陸戦隊に、武士である長州藩兵が応戦することも殆ど無く、戦後、高杉晋作らは「侍は案外役に立たない」と認識し、奇兵隊などの諸隊が設立される事となった。
1864年、藩論を尊王攘夷に統一しようと尽力するも、禁門の変で長州藩は敗れて、京で久坂玄瑞らが自刃。
徳川幕府が第一次長州征伐を準備すると、長州藩では保守派(俗論党)の長井雅楽・椋梨藤太・中川宇右衛門らが藩政権を握り、11月に禁門の変の責任者を処罰して幕府に謝罪恭順。
改革派「正義党」は弾圧を受け、松島剛蔵らは野山獄に投獄されると、奇兵隊総管であった赤根武人らは、必死の助命嘆願活動を行った。
高杉晋作らは逃亡したのち、1864年12月15日に功山寺で挙兵した事が、長州には16日に伝わり、松島剛蔵は12月19日に処刑された。享年40。
辞世の句は『かねてより たてしこゝろの たゆむべき たとへこの身は くちはてぬとも』
墓所は山口県萩市の東光寺で、祀られている。
この時、処刑された長州藩士11名は「甲子殉難十一烈士」と称されている
甲子殉難十一烈士
宍戸真澂、山田亦介、前田孫右衛門、竹内正兵衛、毛利登人、松島剛蔵、中村九郎(長州藩士)、佐久間左兵衛、大和弥八郎、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎
(参考) Wikipedia、萩博物館
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