西郷吉二郎の解説 西郷隆盛の弟として戊辰戦争に赴くも戦死する




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西郷吉二郎(さいごう-きちじろう)は、1833年に薩摩藩士の西郷吉兵衛の次男として生まれました。幼名は金次郎。
母は満佐(椎原国紀の娘・まさ)で、兄に西郷吉之助(西郷隆盛)がおり、弟に鳥羽伏見の戦いで負傷した西郷従道(西郷信吾)や、西郷小兵衛がいます。

西郷吉二郎と言う名で通っていますが正式な名前は西郷隆広となります。

1852年に父・西郷吉二郎が死去すると、兄の西郷隆盛が西郷家の家督を相続しました。


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1854年(安政元年) には、東郷平八郎に対して、西郷吉二郎が習字を教えていたとあります。
1857年(安政4年)、西郷吉二郎は御勘定所書役を務めていました。

西郷吉二郎の妻は、有馬九之丞の娘・マスですが、後妻は仁礼平蔵の妹・園です。
西郷園は、夫・西郷吉二郎を支え、西郷隆盛の妻・糸らの良い相談相手となった模様です。

1862年に兄・西郷隆盛が2回目の配流となって、沖永良部島へ送られた際に、西郷家は知行と家財が没収されています。
そのため、弟の西郷小兵衛(さいごう-こへえ)と西郷吉二郎は遠慮となり、もうひとりの弟・西郷信吾(西郷従道)は謹慎処分となりました。

遠慮(慎み)と言う罪(刑罰)は、基本的に、自宅での籠居(ろうきょ)を命じたもので他者の出入りを制限なし。
夜間になると秘かな外出は黙認されていたようです。
西郷吉二郎は沖永良部島の土持政照充てに手紙を送っています。

謹慎は遠慮よりも厳しい処分で、家族や雇い人以外との接見や通信は禁止でしたが、夜間は同様に目立たなければ外出は許されていました。



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のちに西郷隆盛は常に「自分が国家の為、ご奉公できるのは、弟の吉二郎が自分に代わって兄の責務を果たしてくれていたからだ」と評しています。
このように、江戸に滞在することの多い兄・西郷高森に代わって、西郷家の取り仕切り、薩摩では名代も果たしていました。

1868年、戊辰戦争の際には番兵2番隊監軍として越後に出兵しています。
しかし、長岡城の戦いに参加し、1868年8月14日、越後国五十嵐川付近(新潟県三条市)での戦傷がもとで、西郷吉二郎は戦死しました。享年36。
葬所は越後高田で法名は義勇軒猛道忠逸居士。
1869年(明治2年)11月11日、西郷吉二郎の遺族に対して、扶持米70俵を、30年連続の下賜となっています。

2018年NHK大河ドラク「西郷どん」では、渡部豪太さんが西郷吉二郎を、柏木由紀さんが西郷園を演じました。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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