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孝明天皇とは
孝明天皇(こうめいてんのう)は、天保2年(1831年)6月14日に生まれた。
父は先代となる仁孝天皇でその第四皇子、母は正親町雅子(新待賢門院、藤原雅子)。
1846年、父・仁孝天皇が崩御し、第121代天皇に即位した。
1847年、御所の建春門外に公家の学問所が設立されると「学習院」(京都学習院)と名付ている。
しかし、日本近海に度々外国船が現れる時代となっており、1853年にはペリー提督が率いる黒船来航となった。
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その為、孝明天皇は、徳川幕府に対して異例と言える外国船に関する勅書を出し、海防強化と外国船の状況報告を求めるなど、一貫して開国に反対して「攘夷」を望んだ。
これに対し、大老・井伊直弼は朝廷の許可なしに、日米修好通商条約は結ぶなどした為、不信を示すなど、攘夷派を勢いづける。
その為、攘夷派と幕府派は京都の街で対立した事もあり、治安維持を行った京都守護職である会津藩主・松平容保へ厚い信任を示すなどしている。
桜田門外の変で、井伊直弼が横死すると、幕府は公武合体策を目指し、老中・安藤信正と久世広周は、皇妹・和宮と徳川家の将軍・徳川家茂との婚姻を要請すると、孝明天皇は攘夷実行を条件に承認して協力した。
そして、第二次長州征伐の勅命を下すなどしたが、公武合体策は大久保利通や西郷隆盛らも反対を唱え、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩藩は出兵を拒否している。
その後、1866年12月25日に崩御。宝算36(満35歳没)であった。
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孝明天皇暗殺説
僅か35歳で急死した孝明天皇の死因は、天然痘と診断されたが、その死因については急すぎる事から暗殺説もある。
実際に孝明天皇は長年、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外においては至って壮健であった。
1866年12月11日から風邪気味であった孝明天皇は、12日に発熱すると以後回復の兆しなく、16日からは天然痘を疑って、15名の医師団による治療が24時間体制で行われた。
その結果、24日までは順調に回復する傾向にあり、25日の昼もちょっと食欲が出たとある。
その後、急に悪化して血便を何度も洩らして苦しみ、午後23時過ぎに崩御されたのである。
このように回復傾向であったのにも関わらず、急激に悪化し崩御されたことから、ヒ素による毒殺と見る説もあり、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとする見方もある。
また、典型的な脚気で、ビタミンB1欠乏により全身がだるくなり、急激に心肺停止を引き起こしたとも考えられる。
・岩倉具視 倒幕と明治新政府に貢献した公家
・和宮【和宮親子内親王】公武合体の象徴とされた皇女
・徳川家茂~幕府に翻弄され大阪城で殉じた徳川幕府の14代将軍
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コメント
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孝明天皇の死因は、今日の医学では100%砒素中毒だそうです。これを侍医(主治医)だった『伊良子光順』の日記が昭和49年4月、京都での医学史展にて当主の英断で公開された。そこに、『御所御疱瘡之節幷ニ御凶事勤仕日記』に記されているそうです。慶応二年十二月の段階で、孝明天皇を邪魔者と認定した人物がいた。崇峻天皇を暗殺指示をした蘇我馬子とともに、同様の犯罪を犯したのは宮中に近い権力者だろう。天皇に砒素を盛れる立場にいた人物は、食事の担当者である。これに、指示が出来るのは公家でしょう。この私の云っている意味が解るでしょうか?