スポンサーリンク
吉田稔麿
吉田稔麿は、1841年閏1月24日に松本村新道にて誕生した。初名は栄太郎。
父は長州藩士の足軽・吉田清内。母の名は吉田イク。
吉田稔麿の生家と、吉田松陰の生家は近所で、萩の松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。
下級武士であったこともあり、藩校・明倫館には入れなかったが、吉田稔麿は、近所にある寺子屋に百姓や町人の子供達とともに通っていたと言う。この寺子屋では伊藤利助(伊藤博文)とも一緒に学んでいる。
これが久保五郎左衛門が教えていた松下村塾であった。雅号は風萍軒(ふうひょうけん)。宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修めている。また、無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれる。
年少の頃は、江戸藩邸詰の小者として、裸足で薪を割ったり、走り使いをしたりしていたと言う。
吉田松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、飛脚として江戸藩邸の手紙をもって萩に帰国。そして、増野徳民に誘われて吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究めた。
高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一とともに「松門の四天王」と称されている。
スポンサーリンク
1858年、吉田松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れた。吉田松陰の処分に抵抗した罪で、一時、前原一誠と共に謹慎処分を受けたと言う。
しかし、翌年に吉田松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。
1860年10月、吉田松陰の跡を追って長州藩を脱藩し、江戸の旗本・妻木田宮の家士として仕えて、幕府とのパイプを築いた他、吉田松陰の様子を探ったとされるているが、1862年に脱藩の罪を許されている。
また、同年1862年10月には、吉田松陰の慰霊祭に初めて参加し、久坂玄瑞らとともに攘夷活動に奔走した。
1863年6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。そして、被差別部落民の登用を藩に建言すると7月に自ら「屠勇隊」を創設し、8月の朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込んで説得に成功した。
またこの年に「稔麿」と改名している。変名は松村小介など。
1864年6月5日の池田屋事件の際、宮部鼎蔵らが襲撃を受け命を落とした。吉田稔麿も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外していたと言う。
その後、しばらくして池田屋に戻ったところを、近藤勇・土方歳三率いる新撰組が池田屋の周辺を取り囲み、奮闘の末に討死した。
最近の別説では、川原町の長州藩邸に戻っていた吉田稔麿が脱出者から異変を聞き、急ぎ池田屋に向かおうとしたが、加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇して討死にしたとされている。
また別の説として、池田屋で襲撃を受け、負傷をしつつも長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。享年24。
墓は京都霊山護国神社(京都市東山区清閑寺霊山町)・護国山(萩市椿東椎原)・桜山神社(下関市上新地町)・朝日山招魂場(山口市秋穂二島・現朝日山護国神社)の4ヵ所。
萩市俊光寺は吉田家の菩提寺だが当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都市左京区岩倉花園町)にある。
明治24年(1891年)に従四位が贈られた。
後年、松下村塾の同門生で後の明治の元勲にもなった品川弥二郎(子爵)は「吉田稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったとされている。
吉田稔麿 (よしだ としまろ)の兄弟は妹が1人いた。名は吉田ふさ (フサ、房)と言い、11歳も年齢が離れていたというが、吉田ふさは大津郡三隅村字小島(現在の長門市)の朝枝家から、義久という婿養子を迎え、吉田家を継いだ。
(参考) Wikipedia
スポンサーリンク
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
名無しさま、この度は、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
ご指摘のとおり、おかしいですね。
恐らく、宮部鼎蔵と参考元が間違っているような気がいたします。
対応しておきます。
ご連絡ありがとうございました。
初めまして
楽しく読ませて頂いています。
一点気になりましたので書かせてもらいます。
梅田雲浜て安政の大獄で真っ先に捕まった人ですよね?
その時に獄死してませんでしたか?