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永井尚志(ながい-なおゆき)は、幕末に活躍した江戸幕府の旗本です。
父は、、三河奥殿藩(岡崎市)の第5代藩主・松平乗尹で、母は側室となります。
永井尚志が生まれる前に、病弱だった父は隠居しており、既に家督は養子に譲っていました。
そのため、永井尚志は藩は継げなかったため、25歳の頃になって、2000石の旗本・永井尚徳の養子になったようです。
小姓組番士となって、昌平坂学問所に入り勉学に励みます。
そして、1851年には甲府徽典館学頭となりました。
1853年には、有能な人物が登用される「目付」になっています。
目付と言うのは、若年寄の代わりに、旗本・御家人・諸藩の藩士らの勤怠などを、監察する役職です。
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永井尚志は従五位下・玄蕃頭に叙任されたことから、永井玄蕃頭とも呼ばれます。
この1853年には、折しも浦賀にペリーが来航(黒船来航)したため、永井尚志は海防掛を兼務して、砲台普請なども担当しています
その後、長崎海軍伝習所の総監理(所長)も務めると、勘定奉行を経て、1858年には、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられます。
そして、日米修好通商条約調印を監督し、ロシア、イギリス、フランスとの交渉も進展させて通商条約調印などの外交を行ないました。
1859年には、幕府海軍を統括する軍艦奉行となりますが、一橋慶喜を支持していたため、南紀派の大老・井伊直弼によって罷免されて失脚し、隠居差控の処分を受けています。
井伊直弼が暗殺されると、1862年には京都町奉行で復帰し、1864年に大目付となり離れるまで、京都守護職として赴任した松平容保や、新選組の近藤勇、土方歳三らと京都の治安維持に努めました。
特に、1863年の八月十八日の政変、1864年の禁門の変では、朝廷と交渉するなど能力を発揮しています。
1867年には、徳川慶喜が大政奉還を行ったあとの難局にて若年寄に出世しました。
若年寄(わかどしより)は、全国支配を行う老中に次ぐ重職で、旗本から若年寄への栄進は異例のことです。
戦国時代の竹中半兵衛の一族となる、竹中重固もこの頃、若年寄となっています。
しかし、若年寄就任の2週間後には鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)となり、徳川慶喜に従って大阪城から江戸城へ戻りました。
明治新政府により、若年寄は御役御免、更に逼塞処分となると、その後は息子(養子)の永井岩之丞と共に榎本武揚に合流して蝦夷地へ渡ります。
そして、五稜郭に入ると、永井尚志は箱館奉行となり、箱館戦争では弁天台場を守備して新政府軍と戦いました。
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しかし、弁天台場は孤立して食料も尽きたことから、新政府軍に降伏します。
その後、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄に投獄されましたが、約2年あとに釈放されると、明治政府に出仕します。
北海道の開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)には、元老院権大書記官となりました。
永井尚志は明治24年(1891年)7月1日に死去。享年76。
・岡本健三郎とは~下横目として監視役を務めた土佐藩士
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・新撰組副長である土方歳三の「生き様」とは
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