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澤宣嘉(さわのぶよし)は、権中納言・姉小路公遂の五男として1835年12月23日に生まれた。
幼少の頃から才知に長け、和歌・剣術・馬術に優れた若者であったと言う。
17歳のときに澤為量の養子なり、その娘・藤子と結婚。
1858年、大老・井伊直弼が勅許なく日米修好通商条約締結すると、養父・澤為量と共に勅許に反対し、廷臣八十八卿列参事件に参加した。
以後、尊皇攘夷派の公家として活躍。
1863年、中川宮と会津藩・薩摩藩による、八月十八日の政変では失脚して、三条実美、壬生基修、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、錦小路頼徳と七卿落ちの1人として、長州藩に逃れた。
そして1863年10月、福岡藩士・平野国臣らに擁立されて但馬国生野(兵庫県生野町)で挙兵。
元奇兵隊総管・河上弥市や、白石廉作、伊藤百合五郎、長野熊之允、和田小伝二、小田村信之進、下瀬熊之進、井関英太郎ら30数人の浪士とともに、10月12日に生野代官所を降伏させ、また農民2000名も加わった。
ただちに、出石藩兵900と姫路藩兵1000が鎮圧に出動。
しかし、早くも解散論が出始め、10月13日に澤宣嘉が隊を離れてしまう。
すると、農民2000は騙されたと言い、逆に浪士らを襲撃する始末となり、10月15日までに生野の変は鎮圧された。
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小松藩士・田岡俊三郎、森源蔵、水戸藩士・関口泰次郎、出石藩士・高橋甲太郎らと脱出した澤宣嘉は、伊予の小松藩士らに匿われ、1864年6月まで三木左三らの保護を受けた。
その後、三条実美より長州に戻るよう指示が届き、高橋甲太郎、三木左三、三木虎之助、尾埼山人、三木源一郎、田岡俊三郎らに守られて、1864年6月12日、下関の白石正一郎宅に到着した。
1867年、王政復古により許されると、参与として復帰。
その後、九州鎮撫総督、長崎府知事などの要職を務め、明治2年には外国官知事から外務卿に就任して外交に携わった。
明治3年(1870年)、外務卿として各国公使に対して、条約改正について条約所定の交渉期日を待って商議を開始する旨を通告し、条約改正交渉の発端をつくっている。
その後、ロシア公使に内定したが、着任する前の明治6年(1873年)9月27日、38歳の若さで病死した。
その為、急遽、榎本武揚がロシア公使として赴任している。
(参考) Wikipedia
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