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1839年に誕生した杉寿(すぎひさ)は、吉田松陰の妹であり、杉文(楫取寿子)の4歳年上の姉。父は長州藩士・杉百合之助。
杉家には長姉・芳子(千代)(1832-1924)がいて児玉祐之の妻となったので、次女であった。
杉寿と書くほかには、杉希子、杉久子ともある。
節操をかたく守り、信念を貫きとおす勝気な女性で、小田村伊之助が野山獄に投獄された際や、幕府軍が長州に押し寄せてきた時にも気丈に振舞ったことから「烈婦」と呼ばれたと言う。
200石と高禄の長州藩士・内藤一馬との縁談が持ち込まれたが、吉田松陰が脱藩の罪を問われると破談になった。
その後、吉田松陰が、深い仲であった小田村伊之助(楫取素彦)と、杉寿は、似合いの夫婦になると思うとの手紙を萩に送ったのがきっかけで、杉寿と小田村伊之助(楫取素彦)は1853年に結婚し2児を設けた。
多忙な、小田村伊之助(楫取素彦)は家を空ける事が多かったが、小田村寿は椋梨藤太の妻・椋梨美鶴とも交流し、子供を養育しながら夫を支えた。
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長男・小田村篤太郎は、小田村希家を名乗り小田村家を継いだ。
次男・小田村久米次郎は、久坂玄瑞の存命中に、杉文(久坂文)との間に子ができなかった為、久坂家の養子となっていたが、久坂玄瑞が京で作った子が、のちに家督継続を認められたため、楫取家に戻ると楫取道明を名乗り台湾の小学校(芝山巌学堂)で教師を勤めている。この楫取道明は芝山巌事件で殺害された六氏先生のひとりである。
日本初の生糸直輸出を成功された新井領一郎が、アメリカに渡る際、兄・吉田松陰の形見の短刀を手渡した事でも知られる。
仏教の熱心な信者で、夫婦で2年間暮らした長門では観音堂も建てて法座を開いた。
楫取素彦が群馬県令となると群馬でも清光寺を創設するなど、懸命に布教活動を行ったとされるが、その頃から病気がちとなる。
明治10年4月頃は、軽い中風症であったが、明治13年に胸膜炎を併発し、群馬から東京の本邸に帰り病床に臥する身となった。
この時、元奇兵隊士で、群馬県庁で働いていた中原復亮が、病気の楫取寿を手助けして東京まで同行した記録もある。
明治13年11月に、楫取素彦が東京の本邸から群馬に戻る際、楫取寿子はこれが今生の別れになると覚悟しながら、笑顔で送りだしたとされる。
明治14年1月に入ると病状は悪化し重体となったが、子供らには父へ急報をしないようにと言い、私事と公務は区別しなくてはならないと言った。
そして、1881年(明治14年)1月30日早朝、看護する家族らに礼を述べると合唱して念仏を唱えながら、楫取寿は43歳で死去した。
楫取寿の死後である1883年、久坂玄瑞の未亡人であった吉田松陰の末妹・美和子(杉文)が、楫取素彦(小田村伊之助)と再婚し群馬に移り住んだ。
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2015年 10月 07日
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