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山川大蔵(山川浩)とは
幕末の1845年11月6日、山川大蔵(やまかわおおくら)は、会津藩国家老・山川重固(家禄1000石)、母・会津藩家臣・西郷近登之の娘・山川えん(山川艶)の間に、会津若松城下の本二之丁で生まれた。
姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に山川咲子ら7人兄弟がいる。
山川咲子は1860年2月24日に誕生している。
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山川家は、会津藩の祖である保科氏が高遠にいた頃からの古い家臣である。山川えんは女子にも学問をさせるなど教育熱心だったようだ。
1860年に父・山川重固が亡くなり、山川大蔵が山川家の家督を相続したが、その後、山川大蔵の教育は祖父・山川重英が行ったとされる。
1862年、京都守護職に任命された会津藩主・松平容保に従って、山川大蔵は、18歳で物頭(侍大将)に就任し京都に赴任。
1866年10月、江戸幕府が派遣した樺太国境画定交渉のロシア使節団の一員に、藩命で加わり、外国奉行の旗本・小出大和守らとともに欧州へ渡り、西洋を見聞。
榎本武揚らと供に、ロシア・プロイセン・フランスとヨーロッパ諸国を周り、第2回パリ万国博覧会にも訪れた模様だ。
その後、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力。
1868年、鳥羽・伏見の戦いでは、最後まで大坂城に残り、困難な殿(しんがり)を知略を持って務め、林権助隊などの敗残兵をまとめて江戸へ撤退させた。
この頃から、会津藩の下級藩士から山川大蔵は慕われる存在になった。
江戸幕府倒壊後は、幕府の軍事教官であったフランス士官・シャノアンから洋式練兵の伝習を受けている。
3月に入ると会津藩士が江戸を引き上げ始めた。
会津に戻った山川大蔵はゆっくりする間もなく、砲兵隊長として日光口の国境警備に当たるため、田島に陣を設けた。
その後、3月21日に山川大蔵は若年寄に就任。
軍事会計を担当し、会津の御薬園に滞在していた江戸幕府の老中・小笠原長行を訪ねて鋳金の教えを受けている。
そして、江戸より加藤 宗周・明宗といった腕のよい彫金師多数を呼び寄せ、西出丸に金銀吹所を設け、一 分、二分、一両の三種の通貨を鋳造し、会津藩の軍費を助けたと言う。
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いよいよ新政府軍が東北に迫ってきた。
大鳥圭介が幕府伝習隊を率いて日光口に辿り着くと、日光口方面国境警備軍を編制。山川大蔵は副総督に就任。
日光口の山川大蔵は、大鳥圭介と共に下野各地を転戦。
新政府軍の板垣退助や谷干城などの最新兵器を携えた部隊と互角以上に渡り合い、新政府軍は日光口からの会津領突入を断念させ、ここでも勇名を轟かせた。
日光口戦線から、大鳥圭介らの伝習隊は若松を経て母成峠に転陣するも、8月21日に新政府軍が突破し、8月23日会津若松城下に侵攻した。
8月24日、五十里にいた山川大蔵に帰還命令が届き、即座に全軍撤退を開始し、翌日に会津田島に入った。
会津田島には、南会津方面守備隊として軍事奉行・小山田伝四郎の隊を残し、残りの朱雀隊などの部隊は会津若松城を目指したが、城下はすでに新政府軍に包囲されていた。
ここで、山川大蔵は、山川大蔵は彼岸獅子の伝わる小松村の村長・大竹重左衛門や斎藤孫左衛門を呼び、彼岸獅子の協力を求め、笛と太鼓を部隊の先頭に会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を舞わせながら行軍。
新政府軍は装備も命令もバラバラの各藩の部隊であり、お互いに味方の部隊の事をよくわかっていなかった為、山川大蔵らは敵だと気づかれず、敵の陣中を交戦することなく突破して城に近づいた。
籠城する城兵に取っては、日頃聞きなれた獅子舞であり、援軍だとすぐわかり、攻撃を控えて城門を開いた。こうして、8月26日、無事に援軍1000にて堂々と鶴ヶ城に入城し、城内の士気も上がったと言う。
山川大蔵は入城後、会津藩・軍事総督(本丸防衛担当)に就任した。
籠城戦の際、山川大蔵の妻・山川トセ(山川登勢)ら山川家の女性は、照姫の警護をして側に仕えていたと言う。
山川大蔵の母・山川えん(山川艶)が、籠城女子の総取締を担当。梶原二葉(山川大蔵の姉25歳)も子の梶原景清(3歳)を伴て入城していたようだ。
山川大蔵の妹・山川さき(8歳=後の山川咲子、大山捨松)や山川トセ(山本大蔵の妻で旧姓・北原登勢)は、濡れた布団や着物を持って「焼玉押さえ」に奔走した。
当時の砲弾は「焼玉」と言って、熱された鉄の球で火災を起こすものと、実際に爆発するタイプと2種類あった。
焼玉であれば冷やして火事にならないようにした訳だが、爆発するタイプと見分けるのを誤ると、爆発に巻き込まれる為、焼玉押さえは命がけであった。
9月14日(籠城22日目・敵総攻撃の1日目)、山川さきは、焼玉押さえをしている時に砲弾が破裂して首を負傷。しかし、幸い傷は浅く1週間の療養の後、山川さきは再び焼玉押さえに加わっている。
一方、山川さきと一緒に焼玉押さえをしていた山川トセ(山川大蔵の妻19歳)は、照姫の居室にて砲弾が爆発し全身4カ所を負傷。助かる見込みは無かった。
山川トセは、義母・山川えん(山川大蔵の母)に介錯を頼んだが、介錯することが出来なかったようで、山川トセは苦しみに悶えながら亡くなったとされる。
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会津藩降伏の際には、山川大蔵、小森一貫斎、海老名郡治らが9月24日、城の明渡しに立会い、その後、謹慎地の猪苗代へ向った。
その後、山川大蔵は山川浩と改名し、過酷な運命が待つ斗南藩の権大参事に就任。事実上の旧会津藩の責任者となり、苦悩も絶えなかったが、松平容保の後を継いだ幼い藩主と多くの旧会津藩士を守り抜いた。
明治4年、山川大蔵の配慮により、旧会津藩主・松平容保に小松村の彼岸獅子を披露。松平容保は「彼岸獅子の入城」の勇気を称え、小松村の彼岸獅子に会津松平家の会津葵紋の使用を許可し、現在も会津葵紋の使用が許されている。
1871年、廃藩置県で斗南藩が消滅すると、明治政府は知略・戦略に優れた山川浩を陸軍に出仕させ、1873年には陸軍少佐として熊本鎮台に移り、山川浩は元長州藩士・山田顕義の指揮の元、佐賀の乱で活躍。
1877年(明治10年)の西南戦争では熊本城で薩摩軍を撃破する功績を挙げるも負傷し左手の自由を失っている。
1880年(明治13年)には陸軍大佐に進級。
1885年(明治18年)、東京高等師範学校及びその附属学校(現・筑波大学附属小学校及び筑波大学附属中学校・高等学校)、女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)の校長を兼任。
その後、陸軍少将に進級したが、陸軍省総務局制規課長を最後に予備役に編入。
1890年(明治23年)には貴族院議員となも、明治24年頃より呼吸器の病を患い療養生活に入った。
明治25年2月に男爵に叙せられて華族に列した。そして、明治31年3月6日没した。享年54歳。
弟・山川健次郎は、白虎隊(年少組)にも加わり、籠城戦を戦った。その後、秋月悌二朗による抜擢も受け、明治政府の国費でアメリカに留学し、難関のエール大学に合格。
その後、帰国して東京帝国大学で物理学を教えたのち、東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長、私立明治専門学校(現九州工業大学)の総裁、武蔵高等学校
(旧制)(現武蔵大学)の校長などを務め、晩年は男爵になった。
朝敵の汚名を着せられた会津藩からの最高学府の総長就任はまさに異例である。
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姉・山川操は、小出光照の妻となるが夫を佐賀の乱で亡くした後、モスクワに留学したようでのち、明治天皇のフランス語通訳兼昭憲皇太后付女官を務めた。
姉・山川二葉は、会津藩家老・梶原平馬と結婚するも明治維新後には離縁したようで、明治6年には上京し、女子高等師範学校に28年間勤務。長く教育に貢献した功績から高等官となり、従五位に叙せられた。
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