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 1863年、八月十八日の政変にて京を追われた長州藩は、久坂玄瑞高杉晋作らが情報収集のため潜伏活動をします。
 そして、長州藩・土佐藩・肥後藩ら尊王攘夷の志士は、御所に火を放ち、その混乱に乗じて、八月十八日の政変の黒幕である中川宮を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺して、孝明天皇を長州へ連れて行く計画を立てます。

 この計画は、尊王志士を支援していた枡屋・古高俊太郎を捕縛した際、自白したため、新選組が知る事となったとも言われています。

 その会合が行われると言う情報を聞きつけた新選組・近藤勇らは市中を探索。
 1864年6月5日の夜22時頃に、京都三条の旅館・池田屋で会合中の尊攘志士ら約40名を発見しました。

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 新選組の沖田総司・永倉新八・藤堂平助らが踏み込み、のちに土方歳三井上源三郎斎藤一らも駆けつけ、尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らが命を落としました。

 これにより、新選組の名は背の中に轟きましたが、沖田総司が戦闘中に吐血したのも有名です。

 なお、池田屋の主人・池田屋惣兵衛は尊王攘夷の志士を匿った罪で捕らえられ、のちに獄死しています。
 桂小五郎は一度、池田屋を出ていた為、難を逃れました。

 長州藩はこの事件がきっかけとなり挙兵して上洛し、7月19日に禁門の変となります。

 →禁門の変に関してはこちら

 

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