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橋本左内とは
橋本左内(はしもとさない)は、越前福井藩の奥医師(外科医)・橋本長綱の長男として1834年に生まれた。
母は小林静境の娘。
橋本左内は15歳の時に著した「啓発録」の中で、医者の家に生まれた事を嘆いている一文も垣間見える。
16歳である1849年の冬、大坂に出ると緒方洪庵の適々斎塾(適塾)にて蘭学と医学を学び、横井小楠や梅田雲浜とも交流した。
適塾は福澤諭吉・大鳥圭介・大村益次郎など、多くの人材を多数輩出している。
また、杉田成卿からも蘭方医学を学んだ。
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父が病に倒れた事もあり、1852年に福井に戻ると藩医を継いだが、1854年、師・吉田東篁の母の乳癌摘出手術を行ったあと江戸に向かい、神奈川宿からは黒船も見ている。
江戸では英語やドイツ語も独学で習得。
1855年、福井に戻ると橋本左内は洋学の才をかわれ、松平春嶽の側近として書院番に登用され士分となり、1855年11月には江戸出府を命じられた。
江戸では水戸藩の藤田東湖や武田耕雲斎、薩摩藩の西郷吉之助とも親交を深めている。
1857年には藩校「明道館」の学監同様心得となり、一般庶民も学べるようにするなど教育改革に取り組んだ他、江戸幕府の将軍継嗣問題では、一橋派の松平春嶽を横井小楠と共に助け、幕政の改革を訴え開国論を展開。
しかし、1859年、大老・井伊直弼による安政の大獄が始まり、松平春嶽が隠居謹慎を命じられる。
そして、一橋慶喜擁立の一橋派中心人物だった橋本左内は、将軍継嗣問題に介入したことを咎められて、1858年正式の服装で北町奉行所に出頭。
その後も6度に渡り取り調べを受け、伝馬町の牢獄に入ると当初は遠島と下された。
しかし「公儀憚らざるいたし方、右始末不届付」との理由で、のち死罪に変更され、入獄から5日後の1859年10月7日、江戸伝馬町の牢屋敷で頼三樹三郎と共に斬首となった。
橋本左内、享年26歳。
早過ぎる死であった。
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なお、同じ獄舎内にいて20日後に斬首される吉田松陰と対面はできなかったが、橋本左内が吉田松陰に詩を贈ったことを、吉田松陰の「留魂録」から読み取れる。
墓は福井市の善慶寺に隣接する左内公園と、長州の吉田松陰などの南千住・回向院にもある。
また「同輩においては橋本左内にかなわない」と評した西郷隆盛は、明治10年に西南戦争で亡くなるまで、橋本左内の手紙を肌身離さず持っていたと言う。
ちなみに、橋本左内の先祖は、豊臣秀吉の母・大政所の妹が嫁ぎ先で儲けた、戦国武将・青木俊矩の流れとなります。
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コメント
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橋本左内先生を、永遠に景仰します。