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西郷菊次郎
西郷菊次郎(さいごう-きくじろう)は、1861年1月2日に奄美大島の龍郷にて生まれた。
父は当時遠島処分中であった西郷隆盛で、母は龍家の佐栄志の娘で島妻となる愛子(愛加那)となる。
同じ父と母の間には、妹・菊子(菊草)がいるが、のちに大山誠之助(大山巌の弟)の妻となっている。
父の処分が解かれて明治となると、明治2年、西郷菊次郎が8歳のときに、鹿児島の西郷家に引き取られ、西郷糸により育てられた。
明治4年には勅命により明治政府に入ることとなった父・西郷隆盛とついて東京に出ている。
明治5年2月28日、12歳のときにはアメリカへ2年6ヶ月間、留学して英語やアメリカでの風習などを生美、明治7年7月頃に帰国。
そのあとは、西郷隆盛が吉野村寺山につくった吉野開墾社(全寮制の農業学校)に入った。
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17歳のときの西南戦争では、薩軍として参戦し、延岡・和田越えの戦闘にて右足に銃弾を受け、野戦病院に収容されると膝下を切断し、片足だけとなった。
重傷を負った西郷菊次郎は、桐野利秋の計らいで他の負傷兵と俵野の陣に残され、永田熊吉に背負われて政府軍の西郷従道に投降する。
その後、宮崎で放免され、妹・菊草が結婚したあと、ひとりになった菊次郎は奄美大島に帰り、母・愛加那と数年間暮らした。
下記は奄美大島・龍郷の風景。
西郷隆盛の七回忌が過ぎると、明治政府にて語学力を求められて外務省に入り、アメリカ公使館などで勤務した。
日清戦争後の1895年(明治28年)、西郷菊次郎は台湾に赴任するとき、奄美大島に寄り愛加那を訪ねている。
そして、台湾の台北県支庁長・宜蘭庁長などを経て、日本に帰国後したあと、総理大臣・桂太郎などの意向もあり、第2代・京都市長を明治37年10月12日~明治44年7月13日のあいだ約6年半の間務めている。
京都市長じだいに右腕となった助役は、川村鉚次郎となる。
なお、菊次郎の「菊」は、西郷が奄美大島で使っていた菊池源吾と言う名前からと考えられている。
長男にも拘わらず、次郎とつけられているのは、かつて西郷が台湾に赴いた際に、すでに子を儲けていたとする説がある。
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1850年2月、西郷隆盛がまだ22歳のとき、奄美に遠島になったが、1851年4月、薩摩藩の密命にて台湾を偵察するため渡航し、南澳(なんおう、ナンアオ)に上陸したとされる。
11月には薩摩に帰った西郷であったが、台湾の女性が西郷の子をのち産んだとされている。
台湾に西郷菊次郎が赴いていた明治35年、南澳の宜蘭支庁長のとき、菊次郎41歳がその西郷隆盛の遺児・呉意51歳を探し出し、台湾在任中には「兄」として歓待していた。
2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」では、晩年の西郷菊次郎の役を西田敏行さんが演じる可能性がある。
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