後藤象二郎 (2) 坂本龍馬と共に幕末で活躍


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← 後藤象二郎(1)有能な知恵者であった土佐藩士からの続きです

 1867年1月に溝渕広之丞の仲介により長崎の清風亭で後藤象二郎坂本龍馬が始めて会談すると両者とも過去の因縁を忘れ、意気投合し、後藤象二郎は距離を置いていた坂本龍馬とも以後頻繁に会うようになった。
 1867年4月には坂本龍馬の脱藩の罪を後藤象二郎が免じ、土佐藩に付属する外郭機関として坂本龍馬を海援隊の隊長に任命している。

 1867年5月22日には土佐を訪れた英国公使パークスと書記官のサトウに、坂本龍馬・後藤象二郎は面会するなど外交面でも精力的に行動した。
 そして、6月9日、土佐藩船「夕顔丸」で京に向けて乗船中、坂本龍馬より「船中八策」が後藤象二郎に示され、将軍・徳川慶喜の大政奉還を計画する。後藤象二郎はさっそく京で、土佐藩の重臣を大政奉還へと説得すると、西郷隆盛大久保利通小松帯刀ら薩摩藩とも会い薩土盟約を取り付け、7月8日に後藤象二郎は土佐に入り山内容堂に大政奉還を提言した。
 後藤象二郎は、自分からではなく、土佐藩の山内家を引き立てる形で、大政奉還を実現しようとしたのだ。
 薩摩藩とは思惑のズレから薩土盟約は9月7日に解消されたが、京の大目付・永井玄蕃守邸で9月20日、新撰組の近藤勇に会うなど大政奉還の提出に向けて動き続けた。
 土佐では兵制改革を進めていた板垣退助が大政奉還に反対したが、後藤象二郎は山内容堂の説得にも成功し、山内容堂とともに連署して、土佐藩は10月3日に大政奉還建白書を幕府に提出。10月13日、薩摩の小松帯刀と後藤象二郎は将軍・徳川慶喜に謁見。これを受けて1867年10月14日に第15台将軍・徳川慶喜が大政奉還を行う。264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権が朝廷に返上された。
 その後、1867年12月、一緒に国事に奔走した坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺されるなど土佐は痛手を受ける。
 後藤象二郎は、これらの功によって馬廻役の知行150石から中老に昇進し550石加増され700石。また執政に登用され役料800石が追加されて合計1500石になった。
 また、1868年にはパークス襲撃事件を鎮圧した業績が認められ、中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られている。 さらに、維新の功により1869年には明治新政府より賞典禄1000石を賜った。同じく1000石を賜った者には板垣退助、小松帯刀、伊地知正治らがいる。1000石と言うと現在の年収に換算して約7500万円と推測。

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 大政奉還と言う大きな役割を果たした土佐藩であったが、土佐藩の独走を快く思わない薩長は、1867年12月に王政復古の大号令を発する。土佐藩からは神山郡廉、後藤象二郎、福岡孝悌の3名が新政府にて参与の職に付いたが、薩摩藩と長州藩だけで14名も選出されるなど、新政府は薩長が中心となっており、主導権を握られていた。
 そして、ついに1868年1月、鳥羽伏見の戦いとなり、新政府軍と幕府軍が衝突する。土佐藩としては山内容堂が約100名の土佐藩士を京に向かわせていたが、土佐藩兵は新政府軍に加わるなと厳命。しかし、土佐藩軍の最高指揮官・板垣退助は自身の判断で新政府軍に加わり戦闘に参加した。

 → 後藤象二郎(3) 明治政府で要職につく に続きます

 

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