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山南敬助とは
山南敬助(やまなみけいすけ/さんなんけいすけ)は、幕末の1833年に生まれたとされる。
仙台出身と言うが、藩士で脱藩したとも諸説あり、生い立ちについては不明だ。
1833年生まれの幕末志士などには、大鳥圭介、桂小五郎、松平照姫、毛利都美子と言った人物がおり、そんな時期に生まれ育った山南敬助も、江戸に出て学び、剣の道も極める道を選んだのであろう。
江戸に出ると小野派一刀流の免許皆伝となり、北辰一刀流・千葉周作の門人となる。
そして、天然理心流の試衛館との他流試合にて、近藤勇に敗れると、その腕前や人柄に惚れて慕うようになり、以後は試衛館に出入りするようになった。
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1860年8月に府中六所宮(大國魂神社)での近藤勇、天然理心流四代目・就任披露の野試合では赤軍として参加。
1861年1月には沖田総司と共に小野路(東京都町田市)名主・小島鹿之助の屋敷にて出稽古もしており「武人にして文あり」と評されている。
そして、1863年2月、将軍・徳川家茂の警護目的で、清河八郎の浪士組参加を近藤勇らに勧め、壬生浪士組を経て、近藤勇・土方歳三に次ぐナンバー3となり新選組・総長となった。
文武両道に秀でておりで、親切だったことから壬生でも人気があったとされる。
そんな中、1863年10月、大坂滞在中に高麗橋傍の呉服商・岩城升屋に、不逞浪士が押し入る岩木升屋事件が起こる。
一報を受けた山南敬助と土方歳三は急行し、数人を倒して賊を蹴散らすも、この戦いの最中に山南敬助の刀が折れたと言う。
折れた刀の押し型(刀の形を紙に写し取ったもの)は、土方歳三によって小野路の小島鹿之助に送られ、現在、小島資料館にて展示されている。
この時の功績が評価されて、山南敬助は会津藩主・松平容保から金8両を賜った。
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その後の山南敬助
1863年8月の中川宮・会津藩・薩摩藩の結託による八月十八日の政変の際には、山南敬助も新選組として御所の警固をし、8月20日には、京都に潜伏する長州藩浪士を土方歳三と斬っている。
この頃までは、土方歳三とも仲が良かったようだが、その後、芹沢鴨と新見錦が粛清され、山南敬助が新選組総長に就任しても、山南敬助の活動がぱったりとなくなっている。
1864年6月5日の池田屋事件でも山南敬助の名は見られず、永倉新八の手記では6月26日の日付で、病気のために屯所にいる旨が記載されていると言う。
そして、11月に藤堂平助の仲介で伊東甲子太郎が新選組に入隊すると、山南敬助の1つ上の役職とされた参謀に就任しており、山南敬助の立場が低下したとも言える。
一説には、岩木升屋事件の際に、左腕を負傷した、それが重傷だったともされる。
もしかしたら、その傷の手当てが悪く、破傷風などを起こし、戦える体では無かったのかも知れない。
そして、山南敬助は、1865年2月22日、自らの行く先を示唆した書き置きを遺すと、屯所から脱走した。
脱走の理由は、屯所の西本願寺移転問題、副長・土方歳三と対立した、健康上の問題、近藤勇に抗議する意味など諸説があるが、良く分かっていない。
新選組の隊規では、脱走は死罪。
近藤勇は沖田総司にあとを追わせ、大津宿まで逃れた所を簡単に捕縛されると、屯所に連れ戻されたという。
この時、伊東甲子太郎や永倉新八は監禁されている山南敬助に逃げろと勧めたとも言うが、山南敬助は死を受け入れたと言う。
1865年2月23日夕刻、壬生屯所の前川邸で、山南敬助は旧友らにこれまでの感謝を述べと、切腹して果てた。享年33。
介錯は本人の希望で沖田総司が務めたと言う。
ただし、これにも諸説あり、山南敬助は脱走はしていなかった、病気が重く活躍できない事を悔やんで切腹(自殺)した、うつ病だったともされる。
なお、切腹前に山南敬助は、恋人とされる島原の天神・明里(22歳前後)と、格子窓越しぞいに別れを惜しんだとも伝えられている。
そして、山南敬助の葬式には、新選組隊士だけでなく、壬生界隈の京の人々も大勢参列して死を惜しまれ、山南家の家紋と同じ光縁寺に葬られた。
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現在、京都の旧前川邸には、八畳ほどの山南敬助切腹の間が保存されている。
なぜ、追っ手は沖田総司1人だったのか?
山南敬助が脱走したとするならば、新選組幹部の脱走であり、なんとしても捕まえて処分しない事には、末端の隊士に対しても示しがつかない。
となると、普通であれば10人など、ある程度大勢に追わせるはずだが、近藤勇は沖田総司ただ1人を遣わせたと言う。
1人だけで発見するのが難しいのは言うまでもなく、しかも、沖田総司は山南敬助と大変仲が良い間柄でもあったので、例え発見したとしても見過ごす可能性もあった。
それらを考慮すると、近藤勇は「形式上」と言う事で、追わせたと言って良く、そのまま山南敬助が見つからなくても構わない、すなわち近藤勇は事実上、逃亡を見逃したと言って良いだろう。
しかし、いとも簡単に山南敬助は発見され、逃げずに沖田総司と共に戻ってきた。
これは完全に「死」を覚悟した行動であり、近藤勇に対しての命がけでの抗議の意味合いが大きかったと言えよう。
もっとも、近藤勇が自ら捕縛に来なかったことにガッカリし、それだったらもう切腹するしか抗議の示しようがないと思ったのかも知れない。
では、山南敬助は何を近藤勇に抗議しようとしたのだろうか?
山南敬助の抗議の真意
山南敬助がケガなどがもとで健康を害していたのであれば、逃亡する必要もないし、沖田総司に頼んでそのまま逃げる事もできただろう。
逃亡はしていなかったと言う説を考えても、病床にありながらでも近藤勇にアドバイスを送り続ける事ができたはずだ。
しかし「切腹」した。
となると、やはり土方歳三などとの意見の相違が生じ、近藤勇への抗議と考えて妥当だと感じる。
では、何が原因だったのか?
以下は完全な自説となってしまう事を事前にお断りしておく。
文武両道で諸事に通じていた山南敬助は、単なる開国・佐幕ではなく悪魔でも尊王攘夷(幕府も天皇も尊重する攘夷)であったのではないか?と考えてしまう。
しかし、新選組の行動は、不逞浪士を取り締まり京の治安を守ると言う事だけでなく、八月十八日の政変以降、池田屋事件と言い、長州藩など幕府のやり方を批判する過激な尊王攘夷派までも取り締まる任務に変わり、攘夷に逆行するのでは、国内で争っている場合ではないと疑問を感じたのかも知れない。
一説では、山南敬助は単純な尊王攘夷(討幕)を考えるようになったのではと言う説もあるが、もし、近藤勇がそのような説得を受けていたのなら、尊王攘夷派である伊東甲子太郎を新選組にわざわざ入隊させるような事はしなかったと思える。
また、討幕の尊王攘夷を考えていたのなら、逃亡先を長州・土佐など西国に行ったとしても良いと言えようが、大津と言う東に向かって逃げた。
以上の事などを総合的に考慮すると、こんなことをしている場合では無い、長州藩など尊王攘夷派を取り締まるのではなく、むしろ手を取り合って朝廷・幕府一丸となるべきだなどと、国事を近藤勇に訴えたていたのではないだろうか?
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そして、極め付けとなったのは西本願寺への移転だったと感じる。
当時の西本願寺は尊王攘夷を掲げる長州藩と繋がっており、新選組の西本願寺への屯所移転は、その関係を監視する意味合いもあった。
西本願寺側の史料からも、新選組には関わるなと僧侶に達するなど、その警戒ぶりが伺える。
威力を僧侶に示して過激な尊王攘夷派の動向を探る任務は、単に手柄を立てて幕府からの評価を上げるためではないか?と疑問を呈したとも推測できる。
いずれにせよ土方歳三と、新選組の動かし方について、意見が対立したのであろう。
そういう意味では、近藤らと目的が異なる、尊王攘夷派である伊東甲子太郎の加入も、山南敬助はむしろ歓迎していたと考えられる。
脱走した際の書置きには下記のように記されていたとされる。
「私はいやしくも総長の職にあるのに、その意志が隊に反映されないのは、土方歳三らのためだ」
最初の新選組の思想
浪士組が上京して、近藤勇・芹沢鴨らが京都に残留した際、近藤勇は京都守護職・松平容保に対して、京都残留を嘆願する書簡を提出した。
その内容は下記の通りだ。
「天朝を御守護奉るはもちろん、ならびに大樹公(将軍)御警衛、もって神州の穢れを清浄せんがため」
「天朝ならびに大樹公の御守護奉り攘夷仕えるべく候」
すなわち、最初の近藤勇は、幕府のためだけではなく、朝廷も同時に守って、攘夷を行うと言う方針であった。
これは、清川八郎が唱えた「朝廷と将軍が敵対した場合には朝廷につく」と言う尊王攘夷の倒幕とは異なり、ハッキリと天皇と幕府との公武合体に基づいて、攘夷をすると言う思想であり、いわゆる「佐幕」だ。
しかし、いつしか新選組の行動は、そんな原点を忘れたような行動になっていると、山南敬助は感じたのであろう。
もちろん、土方歳三や近藤勇も、幕府と同時に天皇も守るために、長州藩などの過激派を取り締まる事で、それがやがて攘夷に繋がると信じていたとも考えられ、その結果出世もしていくのは自然だと思っていたとも言える。
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山南敬助は、天皇と将軍をお守りしつつ「攘夷する」と言う「原点回帰」を願い、逃亡・切腹と言う手段で、命を懸けた抗議をしたのではないかと小生は感じずにいられない。
そして、近藤勇・土方歳三らは、1867年6月10日に幕臣に取り立てられ、やがて伊東甲子太郎や藤堂平助らも粛清して行くのであったが、10月に徳川慶喜は大政奉還を行う。
しかし、この結果は、近藤勇も、土方歳三も、そして山南敬助も、自分を信じて突き進んだ結果であり、世の中の流れに逆らう事はできなかったのだろう。が、どうしても堺雅人さんの姿が頭にこびりついている私がいる・・。
・井上源三郎 腕より人柄・新選組を支え散った源さん
・佐藤彦五郎(詳細版) 幕末に新選組を支援した日野宿の名主
・近藤勇とは~新選組局長として徳川幕府に尽くした生涯
・新撰組副長である土方歳三の「生き様」とは
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コメント
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2015年 10月 07日
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2015年 11月 07日トラックバック:近藤周助 天然理心流3代目であり近藤勇の養父 – 幕末維新
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2015年 11月 07日トラックバック:土方歳三の愛刀「和泉守兼定」 – 幕末維新
つかださま、お忙し中、ご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
少しでもご参考になれば幸いです。
勉強不足の私にとって
本当にためになります
有り難うございます
歴史は大好きなので
寺田様、いつもコメントありがとうございます。日野に行った関係で、ご返信遅くなりました。
そうなんですよね。私もこの記事を最初完成させた時は「武士になる為(出世のため)に新選組を利用するのに疑問を感じるようになった」として最初は仕上げました。
しかし、単にそれだけだったら、脱走してそのまま逃亡すれば良い話だなと思いまして、山南さんは尊王攘夷をしたかったのかな?と感じた次第です。
でも、うつ病と言う事も、充分考えられる訳でして、その辺りも悩みました。
ご指摘のとおり、土方さんは出世優先でしたし、近藤さんも当然武士になりたい訳でして、山南さんが亡くなったあと、幕臣になりましたが、Dr倫太郎でしたっけ? たしか録画はしてありますが、まだ忙しくて見れていないです。(^-^)
山南さん「うつ病説」を私は採用します。
新選組っつうのは極論「おさむらいさんになりたいのお」だから、自分のやってる事とお玉が池で学んだこととの違いが辛くなってきて、居場所もないし、枡屋で身体壊すとか不運も重なり相当辛かったと思います。
もういい!みたいな感じで飛び出したのかなと思います。私も未だに堺さん見ると山南さんが・・泣けます。ちなみに精神科医のドラマも面白そうでしたよ。