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入江九一は、1837年、長州で生まれた。通称は万吉、杉蔵。
父は長州藩の足軽・入江嘉伝次。
家が貧しかったため、13歳で働いて家計を支えながら学問に励んだと言う。1854年に父が亡くなると、自分1人で家計を支える事となった為、入塾が遅れたとされている。
1858年、弟・野村靖と共に吉田松陰の松下村塾に入門して学ぶと頭角を現し、吉田松陰の思想から大きな影響を受けたが、師から教えを受けたのは1ヶ月余りに過ぎない。
吉田松陰からは、その才覚を高く評価されて、久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の1人に数えられた。
同年、1858年、師匠の吉田松陰が江戸幕府の日米修好通商条約締結に激怒し、倒幕を表明。そして、長州藩に老中・間部詮勝の暗殺を計画。
この時、高杉晋作と久坂玄瑞、吉田稔麿らは猛反対したが、入江九一・入江和作(後の野村靖)兄弟だけは過激化する吉田松陰を最後まで慕い、賛成すると血判状に書名して加担した。
吉田松陰は「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」との見聞が見られる。
吉田松陰が井伊直弼による安政の大獄で処刑されても、入江九一(いりえ くいち)は遺志を継いで、間部詮勝を暗殺しようと計画。
また、獄中の吉田松陰からの伏見要駕策の指示を受けて、参勤の途に上る長州藩主の行列を伏見で止め、洛内に誘引して朝廷に「攘夷」を誓わせようと試みたる。
この無謀な策には久坂玄瑞、高杉晋作ら殆どの門下生が反対したが、入江九一、和作の兄弟だけは師の考えに賛同。しかし、江戸幕府に察知されて、弟と共に岩倉獄に投獄されてしまう。
入江九一は牢内で本の筆耕などをして、母の困窮を軽くしようと努力をしたと言う。
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吉田松陰が処刑された半年後である、1860年閏3月に入江九一・入江和作(後の野村靖)の兄弟が釈放されると長州藩に復帰し、吉田松陰の教えを受けたということで1863年、足軽から武士の身分に昇進し、京都で尊皇攘夷のための活動を行なった。
また、高杉晋作の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となる。
この頃、妹・入江すみ子が、伊藤博文と結婚している。
なお、外国船砲撃の戦いの際には、馬関総奉行として指揮した。
1864年、禁門の変では久坂玄瑞らと協力して天王山に布陣。奮戦したが、会津藩・薩摩藩の前に敗れて久坂玄瑞は自刃した。
入江九一は何とか脱出しようと図ったが、敵の槍を受けて目を負傷。その場で切腹して果てた。享年28。
無念の死を遂げた志士として上善寺に手厚く葬られている。
木戸孝允・大村益次郎たちによって長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社、下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社、山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社、東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られた。
ちなみに弟・野村靖 (野村和作) は維新後、内務大臣などを務めた。
(参考) 幕末人物セレクション、Wikipedia
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