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徳川御三家で幕末の水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ-なりあきら)に関して、幕末期の動向に絞り、詳しくご紹介する。
3男で部屋住みの身分であったが、水戸藩第8代藩主・徳川斉脩が亡くなった際、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内の志士が徳川斉昭を推挙。
この徒党は反対派から「天狗党」と呼ばれたが、こうして1829年11月に水戸・徳川家の家督を継ぐと、従三位に叙し、左近衛権中将に任官。
さっそく藩政改革に乗り出し、民政を重視して藩財政基盤を再建するため、下士層からも広く人材を登用した。
徳川斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革をヒントにしたものと言われ、天保8年(1837年)7月には「経界の義」(全領検地)「土着の義」(藩士の土着)学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)「総交代の義」(江戸定府制の廃止)を掲げている。
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32歳のときである1832年、有栖川宮織仁親王の娘・登美宮吉子(吉子女王)28歳を正室に迎えた。
結婚の勅許を下した仁孝天皇は、「水戸は先代以来、政教能く行われ、世々勤王の志厚しとかや、宮の為には良縁なるべし」と満足したといわれる
徳川斉昭には、吉子女王が嫁ぐ前に側室が生んだ女子があり、結婚後も数多くの側室を持ち、合計37人の子をもうけたが、夫婦の仲は良かったと言い、2人の間には長男・徳川慶篤、二男・徳川二郎麿、七男・徳川慶喜、女子1人を儲けている。
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藩校・弘道館
1841年7月には水戸城・三の丸内には藩校・弘道館を開設。
初代教授頭取には、会沢正志斎と青山拙斎が就任し、経営にあたる学校奉行には安島帯刀を任命し、武道のほかに広く諸科学、諸学問が教育・研究された。
特に、大学の医学部に相当する医学館が弘道館内に設立(1843年)されたのには注目に値する。
こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら比較的軽輩の藩士を用い藩政改革を継続した。
また「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉を設置。
さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進し、蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言している。
また、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料としたり、廃寺や道端の地蔵撤去なども行い、藩政を担う家老らと、藩政改革を進める中級・下級の藩士たちは、激しい派閥抗争を繰り広げた。
そして、徳川斉昭(とくがわ なりあき)と親密であった水野忠邦が失脚すると、後任の阿部正弘は改革が行き過ぎだとし、1844年の鉄砲斉射の事件をはじめ、1843年の仏教弾圧事件などを罪に問いて、家督を嫡男・徳川慶篤に譲った上で、隠居と謹慎処分を命じらた。
その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握ったが、徳川斉昭を支持する下士層の復権運動や水野忠邦の復活もあり、1846年に謹慎は許されると、1849年に藩主・徳川慶篤の後見として藩政関与も許された。
この時期の水戸藩では日立に海防館を建設して砲台を据えたり、農兵の組織作りなどが始められており、那珂湊には反射炉も造り大砲を鋳造し、兵制も砲隊と銃隊を中心とする洋式兵制を取り入れた。
徳川幕府では一橋派として
1853年6月、ペリー提督が浦賀に来航すると、老中首座・阿部正弘から要請を受けて、海防参与として徳川幕府に関わる。
そして、水戸学の立場から徳川斉昭は強硬な攘夷論を主張し、江戸防備のために大砲74門を鋳造して弾薬と共に幕府に献上した(うち1門が水戸の常磐神社に現存)。
また、江戸の石川島で洋式軍艦「旭日丸」を建造し、これも幕府に献上。
水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊王攘夷派が形成された。
安政2年(1855年)、軍制改革参与に任じられたが、安政の大地震で、それまで補佐を務めた藤田東湖や戸田忠太夫らが命を落としている。
安政4年(1857年)、老中・阿部正弘が死去し堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼とも対立した。
さらに第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、徳川慶福を擁す南紀派の井伊直弼らに対して、息子である一橋慶喜を擁して一橋派の中心となり争った。
その時は、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老となり、日米修好通商条約を独断で調印し、さらに徳川慶福(徳川家茂)を第14代将軍に据えた。
その為、安政5年(1858年)6月に将軍継嗣問題と朝廷の許可を得ていない条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永と尾張藩主・徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城に無断登城した上で、井伊直弼を詰問したため、逆に井伊直弼から江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、7月には幕府中枢から排除された。
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安政6年(1859年)、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されると、井伊直弼は激怒。
今度は、水戸での永蟄居を命じられ、事実上は政治生命を絶たれた(安政の大獄)。
井伊直弼が、1860年3月3日に桜田門外の変で命を落とした5ヶ月後となる、万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けぬまま心筋梗塞により水戸で急逝した。享年61(満60歳没)。
徳川光圀と共に、茨城県の常磐神社に祭神として祀られている。
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2016年 3月 09日
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