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岩倉具視(いわくらともみ)は、1825年9月15日、公卿(権中納言)・堀河康親の次男として京都にて生誕した。
母は正室・勧修寺経逸の娘。
幼い頃から異彩を放っており、公家らしくなかったが、知恵物で知られその才から将来期待され、14歳の時に、従三位左近衛中将・岩倉具慶の養嗣子となった。
1839年から朝廷に出仕するも、岩倉家は下級公家で決して裕福では無かったと言う。
1853年1月に関白・鷹司政通へ歌道入門したのをきっかけに、朝廷の首脳陣とも顔見知りとなり、意見書など提出する機会が訪れ、1854年には孝明天皇の侍従に就任するまでになった。
1858年、日米修好通商条約勅許の奏請を老中・堀田正睦が行うと、岩倉具視は調印に反対して抗議し、関白・九条尚忠らと対立したが、幕府の奏請を退ける事に成功した。
しかし、大老・井伊直弼が独断でで日米修好通商条約を締結し、前水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永(松平春嶽)らを謹慎処分にするなど、安政の大獄となる。
1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、幕府老中・久世広周や安藤信正ら公武合体派に協力して、和宮降嫁を推進した。
1861年、長州藩主・毛利慶親が議奏・正親町三条実愛を通じて「航海遠略策」を孝明天皇に献策。
薩摩藩の島津久光が京都の警備に赴くなど、京は次第に尊王攘夷派で埋め尽くされ、公武合体を進めていた岩倉具視は「四奸」の一人として、尊皇攘夷派から佐幕派(親幕派)と疑われ、孝明天皇からも蟄居処分を受けた。
1864年に禁門の変(蛤御門の変)が発生し、京都の攘夷派が一掃されて、嫌疑は晴れたが赦免はなく、そのまま岩倉村で暮らしている所を、薩摩藩の西郷隆盛や、桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らが訪れるようになり、立場を倒幕へと転じた。
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そんな中、1866年12月に孝明天皇が崩御し、1867年に明治天皇が即位し、その後、岩倉具視は赦免されたが、徳川慶喜が大政奉還したあとであった。
しかし、すぐさま薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎らと王政復古を目指すと、岩倉具視が参内して、新政府人事と徳川慶喜の処分を求める「王政復古の大号令案」を明治天皇に奏上し、新政府が樹立するに至った。
新政府においては参与、議定と要職に就任したが、徳川慶喜は1868年(明治元年)に入ると、鳥羽伏見の戦いを挑んだため、岩倉具視は徳川討伐に賛成。
結果的に新政府軍が勝利したため、徳川倒幕に賛成した岩倉具視の発言力は増して行き、事実上、副総裁・岩倉具視ができたての新政府の主導権を握った。
そして、明治天皇の江戸への遷都にも貢献。
明治4年には、不平等条約の改正を求める特命全権大使となり、岩倉使節団として欧米各国を歴訪すると、工業技術などに驚愕。使節団の目的は各国への留学交渉が主要になったと言う。また、この時、産業発展の為には鉄道が必要だと感じて帰国している。
帰国するとすぐに、太政大臣・三条実美の代理として、西郷隆盛らの征韓論をしりぞけた為、明治7年には暴漢にも襲われて負傷している。
明治9年には華族会館の館長に就任すると、華族統制政策を取ったが武家出身の華族から不満が続出し辞職し失敗。しかし、帝国議会で貴族院が開かれた事で、旧武家も旧公家の対立も解消されて行った。
なお、岩倉具視は、東北本線・山手線・常磐線・高崎線、また上野駅・新宿駅・青森駅など、日本初の私鉄「日本鉄道」設立に参加した人物でもあり、上野の鉄道学校は岩倉鉄道学校と改称している。
明治13年頃から板垣退助らの自由民権運動が高まると、参議・大隈重信を政界から追放させ、伊藤博文に対して憲法制定の方針をさだめている。
こうして明治15年に伊藤博文は、憲法を調査するためヨーロッパ各国へと派遣された。
しかし、その帰国を待たずに、明治16年7月20日に胃がんにて死去。享年59歳。
7月25日に、日本初の国葬が執り行われた。
・征韓論とは西郷隆盛VS大久保利通・岩倉具視の戦い
・孝明天皇とは 終始「攘夷」を望んだその生涯と毒殺説
・中川宮朝彦親王(久邇宮朝彦親王)
・西郷隆盛 【西郷吉之助】解説
・大久保利通(大久保正助、大久保一蔵)の解説
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