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西郷頼母とは
西郷頼母(さいごうたのも)1830年3月24日~1903年(明治36年)4月28日
西郷頼母は、菊池氏族西郷氏で江戸時代後期~幕末期の会津藩の家老。
西郷家の会津藩での家禄は1700石。
父は江戸詰家老の西郷近思(ちかし)、母は律子(小林悌蔵の次女)、兄弟は多数いるが、妹・西郷眉寿子、西郷由布子などがドラマなどで良く知られる。
妻は飯沼千重子。
子は二男五女もうけ、長女・西郷細布子、次女・西郷瀑布子、長男・西郷吉十郎有鄰(ありちか)、三女・西郷田鶴子、次男・西郷五郎(夭逝)、四女常盤子、五女・西郷季子。
家紋は鷹の羽で、保科家の九曜紋も許されていた。
西郷家の邸宅は会津若松城のすぐ北側・鶴ケ城北出丸追手通りにあった。
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西郷氏の由来は、もともと「西の郷」を納めた者の名として、全国各地に「西郷氏」が、いくつも生じたと考えられる。
逆に例えると、東の郷を収めた豪族の名として「東郷氏」がいるが、東郷氏も各地で発生している。
西郷頼母の西郷家は、そのうちの室町時代、九州の仁木氏の家臣であり、仁木氏が三河の守護代として移った際に、西郷家も九州から移り住んだ。(三河西郷氏)
その後、戦国時代には松平家に臣従し、徳川政権下では御三家や有力譜代の家臣へと派生したのである。
会津藩での西郷家は その傍流の1つで、初代の西郷頼母助近房以来200年間余り代々、会津藩松平家の家老を務め西郷頼母で9代目であった。
薩摩にも有名な西郷隆盛と言う、別筋の西郷氏もいるのだが、実は、西郷隆盛の西郷氏は、仁木氏に従わずに、九州に残った西郷氏の1つであると考えられ、500年前の先祖は同じ血筋(非常に遠い親戚)だったとも考えられる。
西郷頼母は幼少の頃から学問を好み、剣は溝口派一刀流を学んだ。
また、甲州流軍学を極め<em>大東流合気柔術</em>の後継者でもあった。
※大東流合気柔術に関しては、コメント欄にお寄せ頂きましたご意見も公開中
父・西郷近思が江戸詰のために江戸で過ごすことが多く、22歳で番頭になった頃、飯沼千恵子を妻に迎えている。
1857年、父・西郷近思が隠居すると西郷頼母は家督と、会津藩の家老職を継いだ。
その後、父・西郷近思は1860年に死去。(享年55)
1862年、会津藩主・松平容保に徳川幕府は京都守護職への就任を要請。
はじめ松平容保や西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる方針になったが、政事総裁職・松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で松平容保は就任を決意。
西郷頼母は留守家老として会津にいたが急遽、国家老・田中土佐とともに江戸へ上り、松平容保に京都守護職辞退を進言したため、松平容保の怒りを買う。
京都守護職に就任した松平容保は、会津藩兵を率いて上洛し孝明天皇に拝謁。
新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。
西郷頼母は、一貫して京都守護職を辞めるよう「禁門の変」の直前にも上京してまで藩士に帰国を説くなどしたため、藩主・松平容保は、西郷頼母の家老職を解任し蟄居処分とした。
西郷頼母は会津若松の東北舟石下の長原村に自ら幽居し「栖雲亭」 と名づけた庵で約5年過ごしたようだ。
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藩主・松平容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜ってもいたが、その孝明天皇が1865年12月に崩御。
その後、薩長同盟を締結していた薩摩藩・長州藩との対立が激化し、1867年に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると同時に、京都守護職も廃止された。
そして、王政復古を経て鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。
1868年1月2日、会津藩は鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の主力として参戦。
この時、西郷頼母は松平容保から家老職復帰を許され、松平喜徳の執事となり、江戸の会津藩邸に入る。
会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
この戦いで、明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰(天皇直筆の手紙)があったにもかかわらず朝敵とされたのである。
鳥羽伏見の戦いのあと、徳川慶喜が新政府に対して恭順を行うと、会津藩士や松平容保が江戸を完全に引き払い、会津に向かう際には、西郷頼母が江戸藩邸の後始末を命じられ、遅れて会津へ帰還。
松平容保は会津へ帰国すると、家督を養子の松平喜徳へ譲り謹慎。
この頃、西郷頼母を含む主な家老、若年寄たちは、松平容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府軍の中でも強硬派の世良修蔵は「松平容保親子の斬首」を要求し、態度を一変した。
新政府軍の西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城が無血開城すると、新政府軍は上野戦争で彰義隊を駆逐し江戸を制圧。
そして、東北地方へ進軍した。
仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成し結束を強める。
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いよいよ、新政府軍による会津攻めが現実味を帯びてくる。
まず、会津に新政府軍を入れない為には、白河で食い止める必要性があり、松平容保は西郷頼母に白河口の総督(司令官)を命じ、西郷頼母は4月20日に白河に向けて出発している。
この時、白河藩は改易で幕府直轄となり二本松藩預かりとなっていた為、白河城は二本松藩兵が守備していたが、会津藩としては白河城を1868年閏4月20日に占領。
会津藩兵(青龍隊等)と新選組(山口二郎(斎藤一)が指揮)は、手薄な白河城南方の防備を固めるため、白坂口と棚倉口の小山や丘に兵を入れて防御態勢をとった。
同じ1868年閏4月20日、武力制圧を唱え松平容保親子の斬首を要求していた強硬派の世良修蔵は、福島滞在中に仙台藩士の襲撃を受け、斬首された。これをきっかけに新政府軍が本格的に東北攻略を進める。
新政府軍は参謀・伊地知正治、部隊長・野津鎮雄、川村純義の率いる薩摩兵中心で白河城を攻撃。
25日に新政府軍は白坂口へ奇襲をかけたが会津藩兵はこれを撃退している。
そして、26日に白河口総督として西郷頼母と、副総督・同若年寄・横山主税が白河城に入場。
仙台藩、棚倉藩、二本松藩の支援部隊も到着し奥羽越列藩同盟の兵力は2000を超えた。
山口二郎や純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、西郷頼母は「兵力で勝っており不要である」として却下している。
新政府軍は約700で5月1日に白河城へ攻撃を開始。
武器の能力、作戦的にも新政府軍の方が勝り、列藩同盟は横山主税が銃撃され戦死するなど幹部多数を失い、約700名の死傷者を出した上に白河城を新政府軍に奪われた。
新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わっている。
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列藩同盟軍は再び白河城を攻略するべく画策し、ようやく兵力の再集結を終え、5月26日に約2000の兵力にて白河城へ総攻撃を掛けた。
雨中で両軍とも小銃の着火に手間取ったが、列藩同盟軍は旧式の小銃が多く、戦力に大きな差が生じていた。
列藩同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退している。
6月に入ると、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援されたが、列藩同盟軍にも来るはずの増援は一向に到着しなかった。
しかし、列藩同盟軍は6月12日、6月25日、7月1日と攻撃を続けるも失敗し、7月2日、西郷頼母が総督を罷免され、後任として内藤介右衛門が総督に就くも列藩同盟軍の白河城への攻撃は7月14日が最後となり、当初、戦力でも優勢だった列藩同盟軍は、唯一戦争経験がある会津藩でもこの白河口での敗北した事によって勝機を失い、東北戦争の大勢は決した。
西郷頼母の弟・西郷永四郎もこの白河口の戦いで傷を負い死去している。(享年18)
)
会津若松に向けて、いよいよ新政府軍の侵攻が現実味を帯びてくると、会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測し主力を配置。
しかし、新政府軍は、中山峠に陽動部隊800を送る裏で、板垣・伊地知が率いる主力部隊1300ら総勢2200が裏をかく形で脇街道で手薄な母成峠を8月21日に衝いた。
母成峠の旧幕府軍守備隊は、峠から山麓にかけて築いた3段の台場と勝岩の台場に守将・田中源之進が率いる会津藩兵200と、大鳥圭介の伝習隊400、仙台藩兵100、二本松藩兵100、土方歳三が率いる新選組若干名が加勢し総勢800であった。
8月22日、西郷頼母は登城し復職。水戸藩兵を率いて、冬坂(背炙り山)を守備した。
松平容保自らも白虎隊(士中二番隊)などの予備兵力と共に滝沢本陣まで出陣したが。
しかし、たった1日で会津領内への侵攻を許す結果は想定外で、戸ノ口原の戦いで新政府軍が会津軍を破って滝沢峠に迫ったとの報告を受けると翌日、若松城へ帰城した。
白虎隊出撃の際、西郷頼母の妻・西郷千恵子は、出陣のため城に向かう途中で挨拶に立ち寄った甥の飯沼貞吉(白虎士中二番隊)を励まして見送っている。
新政府軍は23日朝には江戸街道を進撃し、午前10時頃に若松城下へ突入。
西郷頼母は冬坂(背炙り山)から急ぎ会津若松城に帰還し、会津藩主・松平容保に切腹を進め、鶴ヶ城にて全員玉砕を主張するも意見は折り合わない。
同じ8月23日、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした、西郷頼母の母・西郷律子(58)、妻・西郷千恵(34/千恵子、千重子)2歳の西郷季子、三女の西郷田鶴子(8)、四女の 西郷常盤(4)、長女・西郷細布子(16)、次女・西郷瀑布子(13)、西郷頼母の妹2人(西郷眉寿子26、西郷由布子(23)、祖母(80余歳)、居合わせた親族の小森一貫の家族5人、西郷鉄之助夫妻、軍事奉行・町田伝八とその家族2人、浅井新次郎の妻子2人など、21名がことごとく自刃した。
会津藩は女性だけでも233名が自ら命を絶っている。
また、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊(士中二番隊の隊士の一部)は飯盛山で自刃するなど、若い命もいたずらに失われたのだ。
8月26日、身の危険を感じた西郷頼母は城外の部隊へ伝令に行くと言い、11歳の長男・西郷吉十郎のみを伴い、城から脱出することとなった。
障害なく城を出られ、途中、萱野権兵衛と会っても無事であることから、松平容保が西郷頼母の命を助ける形で伝令を頼み、西郷頼母を出奔させたとも考えらている。
西郷頼母は越後口から引き揚げてくる萱野権兵衛、上田学太夫らに藩主からの命令を伝え、自分は米沢から仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流した。
榎本の軍艦開陽丸に乗艦して箱館に赴いたが、頼母はこの艦中で会津の開城降伏の報を聞くことになる。
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その後も会津藩は若松城に篭城を続け、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明。
孤立した会津藩は明治元年9月22日新政府軍に降伏。
旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった
薩摩藩の軍監・桐野利秋の計らいで松平容保は死を免れ江戸に蟄居。
本来であれば家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷頼母は行方知れず、神保と田中は既に自刃していたため、次席の萱野権兵衛が戦争の責任を一身に負って切腹した。
生き残った会津藩の武士と家族約13000人は、青森県の恐山山麓一帯に強制移住させられた。
松平容保が1872年に蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となり、明治26年(1893年)12月5日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため死去した。享年59。
孝明天皇から賜った宸翰と御製は小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったと言う。
西郷頼母は会津を脱出後、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦争にて江差にて新政府軍と交戦。
函館に新政府軍が迫ると、西郷頼母は榎本武揚に対しても降伏することを勧めたが、やはり容れられなかった。
旧幕府軍が降伏すると箱館で自ら新政府軍に投降し、館林藩預け置きとなり、しばらく幽閉された。
1870年(明治3年)西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母となった。
1872年(明治5年)に赦免されて伊豆松崎で私塾・郷学謹申学舎塾長を務めた。その後、福島県伊達郡の霊山神社で神職を務めるなどした。
1879年(明治12年)長男・西郷吉十郎が病没。(享年23) 志田四郎(姿三四郎のモデル)を養子とした。
1899年(明治32年) 霊山神社の宮司を辞し、郷里の若松に戻った。
辞職後は東京に移り、在京の旧藩士小森駿馬・加藤寛六郎、館林幽閉中に世話になった塩谷良翰の宅などを往来した。
1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある。
会津藩は実験経験がある家老格や、これまでの戦いで武勇を馳せた人材がいたにも拘らず、実戦経験がない西郷頼母を白河口での司令官にするなど、結局は古い考えである「身分」を重んじた登用が行われた。
幕末の会津藩にも見識高い若い優秀な人材がいたが、実績を残さない者が新しい事を唱えたり導入を促したりしても、結果的に優秀な人材の意見を取り入れることが困難な体質で、ようやく古い考えから脱却した際には、既に会津城下に敵が迫っており、時すでに遅かったのであると考える。
このような古い考えの中、藩の安泰を第一に考えて、早い段階から西郷頼母は「恭順」するように説得していたのである。
会津の地で「戦争に負けた」と言うのは、第2次世界大戦でアメリカに負けたと言う事を指すものではなく、戊辰戦争で薩長(新政府軍)に敗れたことをいう。
会津藩の最後まで幕府に忠誠を尽くすと言う姿勢は、まさに「武士道」であり、死んで後世の審判を仰ぐと言う、自分の正義を貫いたものだと存ずる。
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西郷頼母の武家屋敷は、会津若松の東山温泉近くに一部が復元され「会津武家屋敷」として現在公開されている。
(参考文献) ウィキペディア、NHK大河ドラマ
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2015年 2月 22日
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