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正式な名は小松清廉(こまつきよかど)、通称として小松帯刀(たてわき)、尚五郎と呼ばれる。官位は玄蕃頭である。
薩摩藩の家老職であり、強い意志と明晰な頭脳を持った、幕末~明治の政治家であった。
1835年12月3日、喜入領主の名門・肝付兼善の3男として生まれる。母は島津久貫の娘。幼名は肝付尚五郎。
肝付家と言えば戦国時代には大隈半島北部を所有した戦国大名である。
戦国後期の1580年に島津家に帰順してからは肝付氏庶流として喜入肝付家が代々島津家の重臣として仕えたが、大名だった肝付本家は僅か100石であったと言う。
肝付尚五郎は、篤姫や篤姫の兄・島津忠敬らと共に指宿・吉利領主の名門・小松清猷から学問を学んだとされるが、篤姫と肝付尚五郎の接点を示す史料は残されていない。
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肝付尚五郎は幼少より儒学を学んだが、15歳の頃から昼夜を問わず勉学に励み本気で学問をしたと言う。ところが17歳頃から病気がちになり、母親が勉強のしすぎだと心配した。
そこで肝付尚五郎は琵琶を弾き始めたのだが、今度は琵琶に熱中してしまい、やはり昼夜を問わず弾いていた。
しかし、先祖の例をあげて琵琶におぼれるものではないとの進言があると、涙を流して琵琶の糸を切り捨て、2度と琵琶を手にすることはなかったと言う。
これらの話からすると何事にも没頭する人柄が見てとれる。
またこの頃から大久保利通など若手下級藩士の集まりである精忠組とも交流するようになった。
肝付尚五郎くらいの家格であると供を連れるのが普通だが、一人で出掛けていたと言う。温泉に行った際も身分を明かさず、平たく民・百姓と付きあうことを心掛けた。このような行動により肝付尚五郎は多くの情報を得たとも考えられる。
さて、この頃の日本は異国船が各地に出没するようになり、幕府も諸藩も対応に苦慮していた。
1837年には東京湾の浦賀にアメリカ商船「モリソン号」が現れ、マカオで保護されていた日本人漂流民を届け、江戸幕府との貿易を求めたが、幕府側は砲撃して追い返した。
その後、モリソン号は、外国と密貿易してた薩摩を知ってのことか?山川港(指宿)に入港して改めて、漂流民を届ける事と貿易を求めた。
しかし、幕府から外国船は追い払うようにと命が出ていた事もあり、薩摩藩は商船モリソン号を砲撃。
漂流民である尾張の岩吉・久吉・音吉と肥後の庄藏・壽三郎・熊太郎・力松の合わせて7人に関しては、薩摩藩としては唯一日本が貿易を行っている一度オランダに送還してもらいたい意思表示をした。
しかし、清国(支那)がイギリスに敗れると外国の力に脅威を抱いた幕府は1842年、異国船打払令を緩和する。
1844年~1845年にはフランスやイギリスの艦隊が琉球(沖縄)に来て、布教・貿易・通信を強制する。1846年より薩摩藩は、外国船に対抗する為、最新の洋式砲術を採用し、大砲・小銃の製造・鋳造を開始。火薬製造所を設け、薩摩藩内各地の海岸に砲台を設けた。
1851年には船乗りとしてアメリカで高等教育を受けたジョン万次郎がアメリカより琉球に上陸した為、薩摩藩は身柄を拘束し約7ヶ月間に渡りアメリカや外国について事情聴取。
同じ1851年、島津斉興の隠居により島津斉彬が薩摩藩藩主となると、特に沖縄防備を強化する方針となり、薩摩藩では幕府の許可を得て大型船の建造などが行われた。
そんな中、1853年には浦賀にマシュー・ペリー提督率いる黒船4隻が現れる。
1855年、肝付尚五郎は篤姫が赴いていた島津藩の江戸藩邸、江戸奥詰奥小姓与近習番勤として初出仕。
1856年、肝付尚五郎22歳の時、小松清猷が琉球へ海防出張中の際、27歳で急死した為、小松清猷の妹・千賀(お近)の婿として吉利領主・小松家養子となり、小松家の家督を継いで小松尚五郎と称した。
千賀(お近)は7歳年上であったが、薩摩藩主・島津斉彬の薦めもあったようだ。同年、小松帯刀清廉と改名し、藩主・島津斉彬の詰衆、当番頭奏者番を兼務、のち、当番頭となる。
また、小松家の家臣との親睦に勤め、鹿児島近くの吉利領である下原良村(吉利・現在の日吉町)では領内改革などに取り組むなど、早くも手腕を発揮した。
ある日には、吹上浜にある雑木林を取り囲み兎狩りを行って、ウサギ汁を振舞ったり、若者への娯楽として相撲を開催して、その後懇親会を開き、領民や若者の意見を聞くなど、家臣だけでなく百姓にも気を配った。
身分関係なく無礼講にて接することを推奨したとも言われ「小松家の名君」として薩摩藩では誰もが知る人物となって行く。
1858年には火消隊長・当番頭
1861年には長崎にて電気・水雷の研修を受け、帰藩後は側役衆となり、磯の藩邸で実演をしている。また、薩摩藩主となっていた島津久光に手腕力量を認められ、側近となると大久保利通らと共に薩摩藩の藩政改革に取り組んだ。
産業、通商を更に盛んにし琉球や清国、そして諸藩と交易することで藩の財政を豊かにし、その資金を重要な教育、急務であった軍事力拡大に使い、薩摩藩の活性化や近代化に大きく貢献した。
1862年、伊作、加世田の地頭となる。島津久光が上洛した際、同行して上洛。京では側詰・側役を兼務し、島津久光の朝廷工作の仕事をし、一橋慶喜を将軍後見職にとの勅旨護衛の為の島津久光江戸下向にも同行した。
そして、8月21日、江戸から京への帰路の際に生麦事件が起こる。薩摩藩の大名行列が生麦に差し掛かったところで、女性1人を含むイギリス人4人が騎馬のまま行列を横切った。
武士側から見ると、大名行列の前を馬に乗ったまま横切るのは最大の非礼。即座に奈良原喜左衛門が斬りかかり、上海在留商人リチャートソンが死亡。他の3人は傷を負いながらも逃げ帰った。
これに対して、イギリスはイギリス人が出歩く許可を得ていた場所での殺人事件とし、賠償金として幕府に10万ポンド、薩摩藩には2万5千ポンドと犯人の引渡しを要求。幕府はしぶしぶ要求に応じたが、薩摩藩は拒否した。
1863年、小松帯刀は薩摩に帰国すると28歳と言う若さで側詰兼家老となり、勝手方掛、軍役掛、琉球掛、産物方掛、唐物取締役掛、製薬方掛、蒸気船掛などの要職を兼務。
しかし、家老になりすぐさまイギリスとの薩英戦争になる、小松帯刀も指揮を取った。
横浜にいたイギリス艦隊7隻が6月27日に鹿児島の錦江湾へ侵入。
最新鋭のイギリス艦隊を見れば、薩摩藩も簡単に降参し、賠償に応じるだろうと言う考えがあったようで、イギリス艦隊は補給物資も少なく、旗艦ユーリアラス号も幕府からの賠償金を大量に積んでいて、弾薬庫の扉が開かない状態だったと言う。
ところが、薩摩藩は改めて賠償を拒否するとイギリス側は憤慨。7月2日未明に薩摩藩の軍艦3隻を拿捕してしまった。これにより薩英戦争が勃発。
薩摩藩は湾岸10箇所に24ポンド砲・18ポンド砲など83門を有し、暴風雨の中で油断している海上のイギリス艦隊を砲撃。当初は薩摩藩優勢に戦いを進めた。
されど、イギリス側は7隻ではあるが大砲は合計100門以上あり、また4000m飛ぶ最新鋭のアームストロング砲(110ポンド砲)を20門前後装備。
その為、薩摩藩の砲台はほぼすべて破壊され、鹿児島城下も砲撃を浴びた。
しかしながら、薩摩藩が降伏する前に、物資不足になったイギリス艦隊は7月3日横浜へ引き返した。死傷者は薩摩側約60人、イギリス側約50人。この薩英戦争で外国の強さを知った薩摩藩は攘夷などとても無理と身をもって知り、賠償金2万5千ポンドを幕府から借りて10月5日にイギリスと講和条約締結。
なお、イギリスが薩摩で一般市民にも被害を与えた事が、フランスなどの平和団体などから強く抗議され、イギリス側は犯人引渡しは黙認するなど、薩摩へ譲歩もした。
そして、以後、イギリスは薩摩を日本の中でも勇猛な藩であると敬意を払い、薩摩はイギリスから軍艦を調達するなど両者は急接近した。
一方、小松帯刀は、その後、島津久光の招きで徳川慶喜(一橋慶喜)と兵庫で会ったりしている。以後は、外交の為、多くを京都で過ごすことに・・。
京都では、藩主・島津久光の意向を汲んで、公武合体及び幕政改革を推進し、朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。
勝海舟より坂本龍馬とその塾生の面倒を見てくれと小松帯刀は頼まれて、坂本龍馬らと懇意になり、この京都で、薩長同盟樹立のために藩論をまとめるべく奔走していく。
坂本龍馬がお龍を妻として娶ったとき、その世話役も務めている。
寺田屋事件で坂本龍馬が負傷した際には、妻・お龍と共に鹿児島城下・原良の屋敷に招き療養に務めさせた。(ちなみに坂本龍馬のこの旅行は日本で始めての新婚旅行と呼ばれている。)
下記が小松帯刀邸跡の石垣となる。
鹿児島市街地からは少し離れた閑静な住宅地の中で、荘重な石垣だけが残っている。
1864年7月18日夜、禁門の変では、小松帯刀は西郷隆盛らとともに薩摩軍を指揮して京都御所を守備。
特に一時、長州に突破された蛤御門を薩摩の加勢によって長州勢を撃退できた功績により、御所を攻撃した長州を撃退した事と、長州が天龍寺に置いて行った兵糧米500俵を焼け出された京の人々の為に分け与えたことにより、薩摩藩は朝廷の信頼を得る事が出来た。
また、この頃からだろうか? 正室・千賀(お近)は薩摩に残したままだったので、京都で側室に16歳前後だった琴仙子(琴子、三木琴、※琴花は創作名)を迎えた。
琴、三味線、踊り、古今の書物、絵画など教養をすべて習得しており、芸技、学問だけでなく、和歌の道にも秀でた京都祇園の名妓とうたわれた少女であったと言われる。
その職柄を生かして京都における情報収集として小松帯刀に協力していたとも言われている。
また、1865年に、小松帯刀は坂本龍馬の仲介で長州藩の伊藤俊輔、井上聞多(井上馨)と会談し、井上聞多を伴い薩摩へ帰り、桂久武、大久保利通、伊地知貞馨らに会わせるなどし、1865年10月15日に小松帯刀は西郷隆盛と共に薩摩軍を率いて上京した。
1865年10月26日には、小松帯刀と琴仙子(琴子)との間に長男・小松清直(幼名・安千代)が誕生。
1866年1月21日前後には、京都二本松の小松邸において、坂本龍馬の仲介のもと、小松帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と、木戸孝允の長州藩が会談。全六箇条からなる薩長同盟が成立した。
その内容は幕府による長州征伐に備えた攻守同盟で、幕府の出方次第では薩摩藩は京都で軍事行動も含まれていた。
その後、3月4日に小松清廉は西郷隆盛・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻らと大坂を出航し、3月11日に鹿児島へ到着。4月には西郷隆盛らと共に藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、5月1日から小松清廉は桂久武や西郷隆盛らと藩政改革にあたった。
また翌年には薩摩藩と土佐藩の盟約である薩土同盟を成立させ、京都で小松帯刀はその外交手腕をいかんなく発揮した。
1867年には城代家老に任じられ2600石。坂本龍馬や中岡慎太郎、板垣退助、後藤象二郎と共に薩土同盟(薩摩藩と土佐藩の同盟)を結ぶなど、外交交渉でも大きな功績を残したほか、大和交易と言う貿易会社も設立している。
徳川慶喜が諸大名を集めて京都・二条城で大政奉還を発表した際には小松帯刀が薩摩藩の代表として参上もした。
しかし、小松帯刀はおいしい贅沢品をたくさん食べていたようで、この頃より痛風もしく糖尿病と考えられる病魔が忍び寄っていた。
明治維新後は、その交渉能力を評価されて明治政府の参与と総裁局顧問の公職を兼務した他、外国事務掛、外国事務局、判事兼務。
総裁・議定(ぎじょう)・参与は三職と呼ばれ、明治政府の中央政治機構の重要な官職であった。
そして、大坂府在勤、外交官副知事、御東幸御用も兼務するなど多くの要職も歴任し、大久保利通らと版籍奉還を画策し、藩政改革案を作成する。
版籍奉還が断行される際に相当な反発が予想されたが、小松帯刀は真っ先に自身の領地を藩に返還した。これにより薩摩藩も朝廷に版籍を奉還し、諸藩もこれに従ったと言う。
1869年5月に病気のため官を辞し、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けることに専念した。
このオランダ人医師、アントニウス・ボードウィンは上野に公園を残すよう明治政府に働きかけ、日本初の公園でもある上野恩賜公園に業績を称える銅像がある。
また、胃腸薬とその処方を日本人に伝え、その後、応用・改良され現在も「太田胃散」として馴染み深い。
小松帯刀は、そんな名医による治療を受けたが、1870年8月16日、大阪にて36歳の若さで病死。あまりにも若く早い死は、幻の宰相(総理大臣)と言う言葉で惜しまれた。
その後の小松家
小松帯刀の死後、小松家は、1870年10月に外孫の町田久成の実弟である町田申四郎実種が小松家当主となり、小松清緝と名乗った。
千賀は小松帯刀が拝領していた1000石のうち、100石を一代限りとして受け取る。あとの100石は小松清緝及びその家督後継者に与えるよう小松帯刀は遺言していた。残り800石は琴仙子(琴子)との間にできた長男・小松清直に与えられた。
小松帯刀が亡くなった1870年には、琴仙子(琴子)との間に、長女・小松壽美(スミ)も誕生したが、小松帯刀の没後、琴仙子(琴子)は長男・小松清直(幼名・安千代)を千賀に預けて、琴仙子(琴子)は長女・小松壽美と共に、生前小松と親交の厚かった五代友厚邸で余生を送る。
一方、小松家当主になっていた小松清緝は僅か2年の1872年(明治5年)に隠居。その後、小松家は千賀の元で育てられていた、小松清直が当主となった。
小松清直は夫人に元薩摩藩家老・島津久宝(島津豊後)の娘、島津福子を迎え、長男の小松帯刀(祖父と同名)は祖父の多大な功績により、1896年6月9日に明治政府は伯爵授爵され貴族院議員。次男の小松重春も經國銀行頭取、日本製罐取締役など経済界で活躍した。
琴仙子(琴子)は1874年(明治7年)8月27日に大阪で病死。享年26。
薩摩・吉利領に小松帯刀の墓地があり、その隣りには千賀(お近)の墓もある。
またその墓地内には生前の千賀(お近)の計らい、別の説では琴仙子(琴子)の希望により、側室であった琴仙子(琴子)の墓も移されている。
千賀は篤姫が亡くなった翌年1884年に没している。
その他
ちなみに、我が国初の新婚旅行は坂本龍馬とお龍が薩摩の小松帯刀の屋敷を1866年に訪れ、霧島の塩浸温泉で湯治した際とされているが、最近の研究では小松帯刀と千賀(お近)が1856年の新婚3ヶ月頃に霧島の栄之尾温泉に湯治旅行した記録があり、小松帯刀夫妻こそが我が国初の新婚旅行をしたと言う説もある。
ただ、新婚の夫婦がちょっと湯治になんて話は、記録こそ残っていないが、江戸後期ではなく、もっと昔でもあった事なのでは思うのは小生だけであろうか?
大政奉還を前に新政府の人事構想が話題になったとき、坂本龍馬が推薦した人物5人の中、最初の1番目に小松帯刀の名があるなど、人望も厚く、大久保利通や西郷隆盛からも大変評価され、将来を期待されていた人物であった。
下級武士に過ぎなかった西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬が幕末あれだけの活動が出来たのも、薩摩藩家老という地位を持った小松帯刀の大名や諸藩重役への工作・交渉面、そして活動拠点や資金面などの支援・協力がなければ、成し得なかったとも考えられ、明治政府樹立に向けて、小松帯刀が果たした役割や存在は大きかったと考えられる。
不謹慎ではあるが、坂本龍馬や西郷隆盛、大久保利通のように非業の死を遂げていたなら、現代に伝わる小松帯刀も偉人として脚光を浴び、小松帯刀は1000円札の肖像画くらいになっていたかも知れない・・。
明治に入ってからの事だが、小松帯刀が、公の急用で馬を飛ばしていた際の話。
小松帯刀は、たまたま朝廷高官である四条殿の行列に出くわしたが、小松帯刀が敬礼もせず一気に駆け抜けようとしたので、四条殿の侍者が驚いて呼び止め、官職姓名を名乗れと叱った。
小松帯刀が名乗ると侍者は驚いて「これは四条殿の御意ではないので・・」と頭を低くして去って行ったと言う。
小松帯刀が下馬しなかったのは、急用の際は上位の方と途中で会っても下馬するに及ばずとの朝命が出されていたからである。
坂本龍馬や西郷隆盛らに関する本はたくさんあるのに、小松帯刀の本はほとんど目に出来ない。
しかし、小松清廉の多大な功績に対しては、1896年6月9日に明治政府は小松清廉の孫に伯爵授爵している。
昭和10年に昭和天皇が鹿児島を行幸した際には、天皇が勅使を遣わして、小松帯刀の菩提にと祭粢料を下賜されてもいる。小松帯刀の功績は昭和天皇でも良くご存じだったのだ。
大隈重信は「容貌、風采とも立派で、気品があり、薩摩人には珍しい雄弁家で、寛仁大度の人だった」と語っている・・。
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鹿児島の小松帯刀銅像
と言う事で、鹿児島にやって参りました。
鹿児島の中心部、鹿児島城(鶴松城)の近くに、小松帯刀の銅像があります。
顔こそ、ちょっと左を向いていますが、銅像のほぼ正面200m先には、西郷隆盛の銅像があり、お互い、今でも政治に関して論しているようにも思える一面でした。
小松帯刀の銅像がある場所は下記の地図ポイント地点となります。
なお、西郷隆盛ら薩摩の志士の史跡を巡る場合には、下記のGoogleオリジナル地図も作りましたので、ご活用頂けますとうれしく存じます。
鹿児島・小松帯刀邸跡の場所は下記の地図の中でご確認願えますと幸いです。
・天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ) 薩摩・島津家から徳川将軍の御代に
・西郷隆盛 【西郷吉之助】詳細版~薩摩藩が排出した幕末の英雄
・島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく
・島津斉興と自身の長男である島津斉彬との確執をわかりやすく
・島津久光(島津忠教)とは 薩摩藩の実権を握り維新へと功績を残す
・桂久武~西郷隆盛との友情を最後まで重んじた島津一門の男
・堀次郎(伊地知貞馨) 大久保らと公武合体に奔走するも・・
・薩摩藩に関する記事も20以上ありますので、是非ご覧ください。
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コメント
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2016年 10月 05日
ご丁寧にありがとうございます。コメントを賜りましたことじたい、大変うれしく存じますので、ぜんぜん、匿名希望との事でも構いません。
戦国系のサイト
http://senjp.com/
もございますので、また、機会がございましたら、是非、コメントお寄せ願えますと幸いです。(*^_^*)
投稿名を匿名希望としており申し訳ありません。
当方、尾張の出でございます。織田信長の出身の地「織田の荘」と「小谷」(福井県)との関係や朝倉氏との深い関係を調べている間に歴史にかなり傾倒し、幕末の地「上野寛永寺」をしばしば散策して小義耐の墓を見ながら維新の頃に耽っております。興味を引いたことを、これからも投稿いたしますので。よろしくお願いいたします。
匿名希望さま、コメントありがとうございます。
佐倉の国立博物館、機会があればとずっと思っていて、行ったことないんです。
貴重な情報ありがとうございました。
先日、千葉県内の佐倉市に国立民族博物館にて、大久保利通の書簡等の展示を見てきました。大久保直筆の書簡や維新の同志らから大久保に宛てた書簡が沢山ありました。大政奉還に対して、王政復古の勅旨もあり、興味深く一日をすごしました。
サイトをご高覧賜りまして、誠にありがとうございます。
ご指摘の通りですね。すぐに修正をさせて頂きます。
この度は、お申し出、誠にありがとうございました。
「小松帯刀の功績は昭和天皇もよく存じ上げていた」
はおかしいです。これなら、
小松帯刀の方が昭和天皇より身分が上になってしまいます。
「小松帯刀の功績は昭和天皇もよくご存知でした。」