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吉田松陰が生まれた杉家は貧しい下級武士の家で、家族は多い時で11人が暮らしていたと言う。
2015年 NHK大河ドラマでは、そんな、吉田松陰を尊敬する妹「杉 文」(すぎ ふみ)を、井上真央さんが演じる。
杉家と文に関する年表は下記の通り。
1830年、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(杉 常道)の次男として、吉田松陰(寅之助、寅次郎)が誕生。母は杉瀧子(村田右中の娘)。
1832年には杉百合之助(杉 常道)の長女・千代(吉田松陰の妹、文の姉)が生まれた。
1839年、寿子(吉田松陰の妹、文の姉)が誕生。
杉百合之助(杉 常道)は石高25石と極貧の下級武士であったので、農業も兼業していた。
三女として艶(つや)が生まれているが1843年に早世している。
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吉田松陰の末妹になる文(ふみ、あや)は、1843年に誕生。4女であった。
吉田松陰は長州藩士・杉百合之助の子で旧姓は杉だが、吉田松陰は天保5年(1834年)に叔父である吉田大助(57石)の養子となり、吉田姓となった。
杉文は幼い頃から、入江すみ、吉田ふさ と仲良しだったとされる。
1849年、乃木希典誕生。
1853年、ペリー提督が来航。
姉の杉寿(16歳)と小田村伊之助(のちの楫取素彦)(25歳)が結婚。
1854年、吉田寅次郎(吉田松陰)が密航しようとして捕えられた。
吉田松陰が野山獄に移されると、杉文は牢に通って書物などを届けている。
1857年、吉田松陰が松下村塾を継ぎ、久坂玄瑞(18歳)が入門。
杉文は仕切る事が好きだったようで、松下村塾では「女幹事」として手伝い、塾生とも親交を深めた。
一度、久坂玄瑞は縁談を断ったが、1857年12月5日、文(15歳)は、吉田松陰の弟子である久坂玄瑞(18歳)に嫁ぐ。
当初の新婚生活は、杉家で始まった。
これ以前には、桂小五郎との結婚を勧めるような話もあったようで、杉文じたいも余り気が進まない結婚だったようだが、やがて仲が良い夫婦になったと言う。
1859年、兄・吉田松陰が江戸伝馬町の獄に送られる事となると、看守・福川犀之助の計らいで1日だけ杉家に吉田松陰が戻ったが、これが最後の別れになるとは想像もしなかっただろう。
大老・井伊直弼の安政の大獄により、吉田松陰は江戸にて斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。
その後、長州藩の尊王攘夷運動は、久坂玄瑞が吉田松陰の意思を引き継ぐ事となり、久坂文と久坂玄瑞も一緒にいる時間は、あまりなかったようだ。
1862年、久坂玄瑞は尊王攘夷を唱え、江戸へ下って英国公使館を焼打ち。
1863年5月、下関戦争。
1863年8月18日、中川宮による八月十八日の政変により、長州藩は京から追い出される。
1864年7月19日、禁門の変(蛤御門の変)にて久坂玄瑞は長州勢を率いて、会津藩などと戦ったが敗れ、享年25歳で自刃。その為、久坂文は22歳で未亡人となった。
甥の久米二郎(粂次郎)(寿と小田村伊之助の次男、のち道明)が生前に養子となっていた為、久坂家を継いだ。
なお、久坂玄瑞は京の芸者・辰路との間に、久坂秀次郎と言う一子を設けていたとされ、のち長州藩から認められて久坂家を継いでいる。
1865年9月、毛利元徳と毛利安子(銀姫)(23歳)の間に、長男・興丸(後の毛利元昭)が誕生。奥の総取締役・園山から杉文(久坂美和)(23歳)が興丸の守役(養育係)に抜擢される。父・杉百合之助が死去。
下士の娘が、世継ぎの守役に抜擢されたのは、いわば大抜擢であり、それだけの相応しい教養を杉文は持っていたと言えよう。
この時、名を久坂美和と変えて奥女中になったとの記録も垣間見え、藩庁が萩から山口に移った際にも同行し、明治初期(明治3年頃)まで毛利家に仕えていたと考えられている。
恐らくは、版籍奉還で、毛利安子らが東京に移った際に、女中を辞めて杉家に戻ったと考えられている。
1865年、奇兵隊に乃木希典も合流し、幕府軍と戦った。
1866年、第二次長州征伐。
1867年9月、小田村伊之助は藩命により楫取素彦(かとり もとひこ)と改名。
明治2年頃、京の久坂秀二郎が山口にやってきている。
1876年(明治9年)、前原一誠らが「萩の乱」を起こした。この時、吉田家を継いでいた甥・吉田小太郎(兄である杉民治の長男)が戦死し、叔父・玉木文之進は切腹した。
この年、楫取素彦は群馬県令に就任。しかし、妻・杉寿は病にかかったこともあり、この頃、美和(杉文)も群馬に移り住んだと考えられる。
1879年、久坂玄瑞の遺児・久坂秀次郎が久坂家を相続し、道明は楫取家へ戻った。
1881年(明治14年)1月30日、文の姉・寿子(ひさこ)が死去。(43歳)
姉・寿子は楫取素彦(55歳)の妻であった為、母・滝子(78歳)の勧めもあって後妻として、美和(41歳)に再婚話が出た。
1883年、当初、久坂美和(杉文)は「貞女二夫にまみえず」と応じなかったが、母・杉滝子は「こうすることが、亡夫・久坂玄瑞や亡姉・寿子、亡兄・吉田松陰の願いであろう」と説き、久坂玄瑞が残した21通の手紙(涙袖帖)を持って嫁ぐ許可を得られたことで再婚を決意。いったん杉家に復籍して名前を美和子と改めて5月に楫取素彦と再婚し、前橋に移り住んだ。ただし、2人が一緒に生活を始めたのは、約2年前の1881年末頃からとされている。
楫取素彦と赤城温泉に行ったと言う記録があり、新婚旅行とされている。
1884年、群馬県令だった楫取素彦は老院議官に転任し、楫取美和子らは東京に移る。
楫取素彦は明治19年1月、高等法院陪席裁判官に任じられ、明治20年5月には華族に列し男爵となる。
明治23年7月、貴族院議員に当選すると以降複数回連続当選。
楫取美和子は華族・男爵夫人として多忙な後半生を送った。
明治26年(1893年)には山口県への移住が許可され、防府に新居を構えた。楫取素彦65歳、文51歳のときである。
1890年、母・杉瀧子が死去。(85歳)
1892年、夫・楫取素彦と共に華浦幼稚園(現・鞠生幼稚園)の設立に携わった。
1896年、前年より教師として台湾に赴任していた楫取明が芝山巌事件により死亡。
明治30年(1897年)、楫取素彦が明治天皇第10皇女・貞宮多喜子内親王の誕生に伴い、御養育主任を命じられ、妻の楫取美和子(文)も貞宮御付として仕えることになる。
東京の青山離宮(東京都港区赤坂御用地内)に貞宮御殿があり、数名の係とともに貞宮の養育にあたった。
翌31年、楫取素彦は宮中顧問官に任じらる。
明治32年1月、わずか3歳(満1歳6カ月)で貞宮が夭逝。
楫取素彦が葬祭の喪主を務めた。
楫取素彦はその後も貴族院議員を長く務め、防府と東京の間を汽車で往復すると言う忙しい日々を続けたと言う。
その間、妻・楫取美和子は公務で忙しい楫取素彦を支えた。
1904年、日露戦争。
1912年 文の夫・楫取素彦が死去。(84歳)
1921年(大正10年) 山口県防府町にて楫取美和子(文)が、死去。
墓所は防府市の大楽寺で夫・素彦と並んで眠っている。
1924年 文の姉・千代が死去。
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