楫取素彦【小田村伊之助】初代群馬県令であり吉田松陰の妹・文の再婚相手
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楫取素彦【小田村伊之助】とは
小田村伊之助(楫取素彦)(かとり-もとひこ)は、1829年3月15日、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)の長州藩医・松島瑞蟠の次男として生まれた。通称は久米次郎または内蔵次郎。
兄に松島剛蔵、弟に小倉健作がいる。
1840年、13歳の時、明倫館儒者・小田村吉兵の養子となって小田村伊之助と名を改め、1844年、長州藩の藩校である明倫館に入り、1847年に19歳で司典助役兼助講となった。
また、この19歳の時に、養父が亡くなった為、小田村家の家督を継いでいる。のちに小田村文助・小田村素太郎と改名。
22歳の時、大番役として江戸藩邸で勤務すると、江戸藩邸の有備館にて安積艮斎・佐藤一斎らの教えを受けた。
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1851年、吉田松陰が江戸に出た際に、小田村伊之助は意気投合。
1853年、吉田松陰の妹・久(杉寿、杉久)と結婚。その後、2児を設けている。
なお、婚儀の際、吉田松陰は江戸遊学中であり、書簡でこの慶事を知ったと言う。
また、斬新的な考えを持つ吉田松陰に共感し、儒学だけではこの難局を乗り越えられないと考えるようになる。
1855年4月、27歳のとき明倫館舎長書記兼講師見習に就任。
1856年2月、長州藩は幕府の命を受け、小田村伊之助は相模出衛を命ぜられ、1857年4月に帰国した。その後、明倫館都講役兼助講。
この頃から吉田松陰の松下村塾も盛況だったが、小田村伊之助は年上であったこともあり、直接には吉田松陰からは学んでいない。
しかし、妻が吉田松陰の妹・杉久だと言う縁から、当初から村塾の設立計画には参与していた。
その為、吉田松陰からの信頼は厚く、1858年11月に松下村塾が閉鎖されるまで、時々訪問しては援助するなどし、塾生とも顔見知りになっている。
吉田松陰の激論を小田村伊之助はきちんと受け止めて、相敬愛するところは2人の特色だったと言う。
吉田松陰が投獄されると、藩に寛大な処置を願い出た他、国事で忙しくなるまで、塾生指導の教育にも当たった。
吉田松陰が処刑される前に記した遺書には、連絡を取って欲しい人物の1番目に、小田村伊之助の名が出ている。
明治以後は、杉民治と共に一門の中心となって、吉田松陰の顕彰に尽力している。
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1859年、31歳のとき、手廻組に抜擢され、藩主・毛利敬親の侍講(側儒)となった。
1860年、山口講習堂及び三田尻越氏塾で教鞭を取り、1861年以後は、専ら長州藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走した。
1863年、側儒役から奏者役をもって御内用掛、そして奥番頭となり、その後、小納戸役、書記役書物掛へと昇進。
1864年、長崎聞役となって長崎で情報収集・武器調達などを行うと、杉寿の旦那様は藩命により小田村素太郎と改名。
しかし、禁門の変と下関戦争での敗北後、長州藩は椋梨藤太の恭順派(俗論派)が牛耳るところとなり周布政之助は切腹。
小田村素太郎も1864年12月から野山獄に投じられていた。
なお、同じく投獄になった兄・松島剛蔵は、恭順派・椋梨藤太らによって処刑されたが、小田村素太郎(小田村伊之助)はなんとか免れた。
その後、高杉晋作・伊藤博文・井上聞多・玉木彦助らの功山寺挙兵によって藩論が再転換し藩政に復帰すると、吉田松陰の意思を継ぐかのように倒幕に向けて活動。
1865年5月、長州藩主・毛利敬親の命を受けて、変名・塩間鉄造を名乗って、当時太宰府に滞在中の三条実美ら五卿を訪ねている。
この大宰府では坂本龍馬とも交わり、薩長同盟に貢献したとされる。
第2次長州征伐に前に幕府は長州藩へ問罪使を派遣し、長州藩主・毛利敬親の広島召喚を命じたが、藩公は病気と称して断った。
その時、対応役となった正使・宍戸たまき(山縣半蔵)に従い、小田村伊之助(小田村素太郎)は副使として11月20日、広島の国泰寺で幕府問罪使(長州御用掛)の大目付・永井尚志や戸川安愛、松野孫八郎と会談に臨み、長州藩の恭順姿勢を示し疑惑を否定。
この幕府側の永井尚志は、のちの戊辰戦争では、榎本武揚らと共に函館の五稜郭で新政府軍相手に戦った人物である。
なお、交渉が長期化し、1866年5月1日には、高杉晋作、桂小五郎、波多野金吾、佐世八十郎ら12名を差し出せとの命も受けたが、2人は拒否。
そんなうちに第2次長州征伐が迫り6月5日に幕府軍は進軍開始と決まっため、宍戸たまきと小田村伊之助は、そのまま広島に滞在するように命じられたあと、小笠原長行の命で5月8日に拘束されて広島藩に預けられ軟禁状態となった。
その後、小笠原長行が小倉に向かい、高杉晋作、山縣有朋らと戦闘となったが幕府軍は各地で敗退。
広島には宮津藩主・本荘宗秀が入っていたが、戦争継続は不利だとして悟ったため、宍戸たまきと小田村伊之助の2人は6月25日頃に許されて、国泰寺から出ると6月28日に岩国へ到着し、翌日には山口の政事堂に無事戻った。
なお、宮津藩主・本荘宗秀はこの時の対応を咎められて、老中を罷免されて蟄居謹慎となっている。
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1866年の第2次長州征伐をなんとかしのいだ長州藩であったが、小田村伊之助は幕府からの追及を逃れるため、藩主の命を受けて1867年に名前を「楫取素彦」と改名。
これは先祖が「萩藩御船手組(おふなてぐみ)」であったことにちなみ、長州藩のかじ(楫)を取ると言う意味で楫取(かとり)となり、藩主側近の長である奥番頭を命じられている。
そして1867年の冬、長州藩兵の上京の命を受け、諸隊参謀として出征。
公卿諸藩の間を周旋し、遂に鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府軍と戦った。
明治維新後、楫取素彦は、新政府の「参与」となった。
長州藩からは広沢真臣、井上馨に次ぐ人事であり、木戸孝允・伊藤博文よりも早く政府に出仕した。
しかし、在任40日ほどで辞任すると、京都留守居役兼滞京中用所役を経て、郷里へ帰り、奥番頭として長州藩に復帰すると混乱した藩政に携わった。
1869年(明治2年)、防府・三田尻管事を兼務し、翌年には権大参事となるも、明治3年には旧諸隊士1200の脱退騒動にて辞任して藩の政務から離れた。
その後、明治3年には三隅村二条窪(長門市三隅)にて隠遁し、畑を耕しながら生活したようだが、やがて、楫取素彦は「至誠」をもって県政に携わる事となる。
明治5年(1872年)、足柄県の権令・柏木忠俊のもと参事(県庁は小田原城)となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令(県庁は熊谷)、明治9年(1876年)の熊谷県改変により埼玉県と群馬県に分割され、48歳のとき、新設された群馬県令に就任した。元奇兵隊士の中原復亮が病気がちの楫取寿を手助けした他、楫取素彦の腹心として政策を支えている。
埼玉県令には同じ長州藩士だった白根多助が就任している。
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群馬県は当初、高崎に県庁を定めたが、当時、日本の主要輸出品であった製糸の振興が、群馬においてもいかに重要かを認識。
上州と武州は、その人情が反骨的で治めるのが難しいため、楫取素彦が遣わされたとも考えられ、草鞋(わらじ)を履いて、県内をくまなく周り、県民の意見を聞いて歩いたと伝わる。
また、明治5年に操業するも、経営難に陥っていた富岡製糸場を閉鎖せずに、継続を新政府に強く要望し、のちの三井家への払い下げに繋がった事は、世界文化遺産に登録された富岡製糸場の功労者とも言える。
なお「前橋二十五人衆」と称される下村善太郎・勝山源三郎・勝山宗三郎・須田傳吉・大島喜六・市村良平・江原芳平・竹内勝蔵・横川重七・松井林吉・鈴木久太郎・荒井友七・荒井久七・深町代五郎・八木原三代吉・筒井勝次郎・中島政五郎・田部井惣助・武田友七郎・横川吉次郎・生方八郎・桑原壽平・太田利喜蔵・久野幸人・串田宗三郎が、前橋を関東の大都市にするとして師範学校の建設や衛生局の設立などに私財を投じ、製糸業だけでなく物心両面から楫取素彦の県政を支えてた。
当初、群馬県庁は高崎にあったが、当時の高崎は高崎城が兵部省の管轄に入っており、県庁舎を置くのに十分な敷地がなく、各部署が別々の建物に分散し、県政に滞りが生じた。
そこで、下村善太郎ら「前橋二十五人衆」が、県庁舎を前橋で提供する、官吏の宿舎を新築し住宅に不便を来さない、師範学校と県衛生局を建設する、諸物価を値上げしないなどの条件を提示し、このように前橋の生糸商人を中心とした住民が県庁誘致費用として、当時の金額で2万6000円、現在の貨幣価値では30億円に相当する額を寄付。
楫取素彦はそのような至誠に報いる為、明治9年9月、前橋城跡に県庁を移転することを決断。
楫取素彦は10年間の在任中である1881年(明治14年)には内務省から群馬県庁を正式に前橋に置くという布告が出されたが、この時、高崎の住民は猛反発したと言う。
どうも、楫取素彦はそのうち高崎に県庁を戻すと約束していたようで、怒った数千人の高崎市民が前橋の県庁を包囲したが、群馬県史によると楫取素彦は病気を理由に面会を拒否している。
このように苦しい立場であった一面も垣間見えるが「明治の三老農」の1人である船津伝次平に駒場農学校へ奉職するよう勧めるなど、群馬での伝統産業の養蚕・製糸業を奨励し、また教育にも力を入れるなど、草創期の群馬県政に大きく貢献し「名県令」とも称された。
特に学童の就学率は「西の岡山、東の群馬」と呼ばれるほど、全国トップクラスになったと言う。
上記はぐんま花燃ゆ大河ドラマ館にて再現れた執務室で、後方には秘書とて支えた楫取寿の机もある。
群馬で製糸所を開業していた星野長太郎は、生糸の輸出を横浜の外国人商人を経由しないで直接行おうと、弟・新井領一郎をアメリカに派遣した際には、前橋の楫取県令夫人・寿子から、吉田松陰の形見の短刀を手渡した。
このようにして、吉田松陰の魂は、明治9年に、群馬人の手によってアメリカへ渡っている。
1881年(明治14年)1月30日、妻の杉寿が43歳で死去。
1883年、55歳のとき、久坂玄瑞の未亡人であった吉田松陰の末妹・美和子(杉 文)と再婚。
また、群馬の宿場にあった遊郭の公娼制度を廃止する「廃娼」も全国で初めて成し遂げるも、明治16年5月、55歳の楫取素彦は年齢などを理由に群馬県令の辞職願いを提出。
そして、明治17年(1884年)7月、元老院議官に任じられ、群馬県令を退任。
8月、後任への引き継ぎのため前橋を訪れた際、前橋の有志が迎賓館臨江閣で送別会を開催した。前橋では数千人が列をなし別れを惜しんだと伝えられている。
また、この退官時に、弟・松田健三が群馬県前橋へ移り住み、群馬県師範学校(群馬大学)にて漢学の教授になっている。
上記写真は臨江閣。
下記の茶室は楫取素彦が寄付して建てられた。
楫取素彦は楫取美和子と共に東京に移り元老院議官に転任。
明治19年1月、高等法院陪席裁判官に任じられ、明治20年5月には華族に列し男爵となる。
明治23年7月、貴族院議員に当選すると以降複数回連続当選。
明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候。
楫取素彦はその後も貴族院議員を長く務め、防府と東京の間を汽車で往復すると言う忙しい日々を続けたと言う。
その間、妻・楫取美和子が公務で忙しい楫取素彦を支えた。
明治30年(1897年)からは明治天皇第10皇女・貞宮多喜子内親王の御養育主任を命じられた。
明治31年、宮中顧問官。
明治32年、貞宮が夭折。
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明治37年、貴族院議員に再当選。
明治43年、82歳になった楫取素彦は老齢につき退官が許された。
大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
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